最近読んだ本と頂いた本。重田園江『社会契約論』、金彗『カントの政治哲学』、ジョナサン・イスラエル『精神の革命』、『新・カント読本』

カントの政治哲学: 自律・言論・移行

カントの政治哲学: 自律・言論・移行

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

どれも大変面白かったが、特に重田先生の『社会契約論』は先生自身の叙述のおもしろさも堪能できる。イスラエルはあまりに啓蒙を単純化しすぎているし、ウィッグ史観に陥りがち、ラディカルさ競争をしてみても大して意味はないと感じるが、ドルバック、エルヴェシウス、ディドロはあまり知らなかったのでとても興味深く読んだ。
金さんのカント本は、拙著とタイトルがかぶってしまって申し訳ないのだけれど、昨年初頭にもうすぐ入門書を書きますというお話をしていて、タイトルも似ているけれど、仕方ないですよね。。。と談合した経緯がある。拙著よりも更に本格的にロールズアレントハーバーマスとカントとのつながりを論じており、非常に勉強になることは言わずもがなだし、カントが「人間の権利」と「人間性の権利」を区別しているということを極めて正確に指摘する数少ない貴重な文献だ。また、カントの植民地主義批判についても、益するところは大きい。早稲田の合評会でのレジュメはこちら

最近、法政から出た『新・カント読本』もご恵送いただいた。石田京子さんの「永遠平和と世界市民主義──国境を超える正義」は間違いなく必読だし、宮粼裕助「フランス語圏のカント受容──「人間」以後の超越論哲学の行方」や城戸淳「英米圏のカント研究──経験論の伝統」も、カント研究史を知る上で重要である。とりわけ、昨年翻訳出版されたアリソン『カントの自由論』の研究史上の位置づけを論じている後者は、大変ためになる。その他、長田蔵人「常識」の概念とカントの思想形成──ドイツ啓蒙思想スコットランド啓蒙思想からの影響」、佐藤慶太「ヴォルフの形而上学とその批判者たち──十八世紀後半ドイツにおける形而上学の展開」など、思想史的に気になる論文が収録されているし、加藤泰史「『オプス・ポストゥムム』のコンテクスト──遺稿著作はカント最晩年の思想か?」は、長らく史料研究がなされているカントの遺稿についての最新研究の紹介として貴重だ。

新・カント読本

新・カント読本

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

網谷壮介『カントの政治哲学入門』出版

初めての単著が2/7に出版されました。

カントの政治哲学入門: 政治における理念とは何か

カントの政治哲学入門: 政治における理念とは何か


『永遠平和のために』という本のタイトルは聞いたことがあるけれど、いったいカントは政治についてどんなことを考えていたの? 共和制って一体何なの? カントって結局、理想主義者なんじゃないの? 本書が問いに答えます。

カントは『永遠平和のために』(1795)で、共和制や国際連合についてアイデアを提示していますが、それを全面的に展開するのは『人倫の形而上学・法論』(1797)という書物です。本書は『法論』を中心にカントの政治哲学の全体像を語り起こします。

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自由権、正義と国家、共和主義、国際法と平和について、時代に先駆けたカントの発想をわかりやすく解説する清新な入門書。政治における理念の重要さを語り続けたカントの政治哲学の全体像を、『人倫の形而上学・法論』を軸として、最新の研究成果にもとづき描き出すとともに、歴史的文脈に照らしてカントの著作を読み解き、その現代的意義を説く。

はじめに──カントの政治哲学の意義
第一章 自由の権利──法のもとでの自由とは何か
第二章 社会契約論──国家の設立は義務である
第三章 共和主義の理念と制度
第四章 永遠平和のために──国際法世界市民

『カントの政治哲学入門――政治における理念とは何か』白澤社
四六判並製、208頁。2000円+税。ISBN 9784768479698

ホッブズの民主制論――リチャード・タック『眠れる主権者』

リヴァイアサン』によれば、設立されたコモンウェルスは自然状態における人びとが互いに契約を交わすことによって成立する。群れのなかの個々人相互の契約によって主権が創設されるという、この驚くべきメカニズムの影に隠れて、ひそかにその群れのなかでは多数決投票が行われている。

コモンウェルスが設立されるのは、誰であれ一人の人かあるいは人びとの合議体に、人びと全ての人格を表す権利、つまり彼らの代表になる権利が、人びとの多数派によって与えられるということに、群れをなした人びと一人ひとり全てが一人ひとり全てと合意し誓約する場合である。賛成投票した人も反対投票した人も、一人ひとり全てが、その一人の人かあるいは人びとの合議体の全行為と判断を権威付ける〔…〕。Leviathan, chap.18.

ホッブズはここで、人びとが誰に自分たちを代表させる権利を与えるのかを投票することになる集会――まさに契約のために集まった人びとの集会――に、慎重なことに、名前を与えていない。
しかし、そのおよそ10年前の『市民論』では、この集会には適切な名前が与えられていた。それは、民主制である。

国家を樹立するために集合した人びとは、ほとんど集合したこと自体によって、民主制をなす。なぜなら、彼らは自らの意志で集合したのだから、多数派の合意によって決定されることに拘束されると理解されるからである。集合が続いているか、あるいは特定の日程と場所に延期されるかぎり、それは民主制である。De Cive, cap.7, 5

ここでホッブズは、『リヴァイアサン』では名前を与えなかった集会に、民主制という適切な名前を与えている。投票の結果、少数の人々に支配の権利が与えられれば貴族制が、一人の人にそれが与えられれば君主制が誕生し、同時にこの民主制は未来永劫消し去られることになる。しかし他方、そうでないケースをもホッブズは記述している。すなわち、支配者は打ち立てられるが、にもかかわらず、民主制であり続けるという場合である。それは次に再び人びとが集合する日程と場所が取り決められている場合だ。

それゆえ人民populusは、集合したい人が誰でも集合することのできる特定の日程と場所を公に知らしめ取り決める限りでしか、主権summum imperiumを保持しない。De Cive, cap.7, 5

この条件――次に再び集合する時と場所を予め告知しておくこと――を満たさないと、人民の集合体は永久に解散してしまい、再び集合する機会を逸してしまう。だが、これを満たす限り、たとえ君主が統治していようと、民主制は継続するのである。
リチャード・タックの『眠れる主権者』(Richard Tuck, The Sleeping Sovereign. The Invention of Modern Democracy, Cambridge UP, 2015)は、こうした『市民論』に記述された民主制が、後に18世紀革命期の憲法制定の際に、多数決投票を通じて活動する人民へと姿を変えるという思想史のストーリーを展開している。タックによれば、ホッブズはボダンとルソーと同じ理論的潮流に属している。それは人民主権憲法制定の場面においてこそ発露するものだと主張する理論であり、同時にそれと裏腹に、主権と統治を区分するという理論である。主権者は、細々とした日常的・通常的な業務には携わらない。むしろ主権者は、国家の体制にかかわる根本法の決定にのみ携わりうるからこそ、主権者なのである。したがって、タックが象徴的に題しているように、こうした理論からは、我々近代国家の主権者は通常は眠っているということになる。
この表現――「眠れる主権者」――は、『市民論』で、民主制から君主制がいかにして選択されるのかをホッブズが詳細に説明する箇所から取られたものである(De Cive, cap.7, 16)。国家を設立するために集まった人民の集会が、自分たちの支配権を少数者や一人の人に未来永劫委譲するのではなく、その権利を一時的に誰かに委託する場合、その時には君主は任期制になり、国家の根本的な体制は民主制のままである。さて、人民が主権を一人の人に委託する場合、3つの可能性が考えられなければならない。

第一に、人民が君主に主権を委ねる際、予め指定された時と場所において集合する権利を人民自身に残しておいたかどうか。第二に、人民がこの権能を自らに残しておいた場合、主権の保有期間として君主に指定された任期が満了する以前に、人民が集合する権能を人民自身に残しておいたかどうか。第三に、人民はこの任期付き君主の意のままに招集され、他の仕方では招集されないということを意志したのかどうか。

ここから、ホッブズは4つのケースを導出する。第1は、主権が君主に委託されるが、その君主の死後に再び集合する日時と場所を予め取り決めておかなかった場合である。この場合、人民は集合する機会を逸し、人びとは自然状態へと解体される。第2は、君主の死後、集合する日時と場所を予め取り決めておいた場合である。この場合は、君主の死後、主権は再び集合した人民に戻る。

なぜなら、(所有権dominiumとしての)支配権はその間ずっと人民にあり、他方、その行使すなわち執行のみが、用益権ususfructusとして任期付き君主の手にあったからである。

第3のケースは、任期付き君主が存命中・任期中でありながら、再び集合する特定の日時を取り決めておいた場合である。ホッブズは興味深いことに、これをローマにおける独裁官のケースと同一視している。独裁官は主権者ではなく、むしろ「人民の第一の従僕」であり、「人民は任期満了以前であっても、彼からその行政権を剥奪した方がいいと思うなら、そうすることができる。なぜなら主権とは、本性上可能な場合には、いつでも支配するという権利にほかならないからだ」。
そして最後は、任期付き君主が選出され、人民が離散する際、君主の命令なしには再集合できないように取り決められる場合である。この場合、民主制は即座に解散され、主権は君主に絶対的に帰属することになる。
ホッブズは、こうした任期付き君主と人民の関係について、アレゴリー的に複雑になることは否めないが、絶対的な君主の比喩を用いて説明する。

なぜなら人民は、自分自身で相続人を指名しない限り相続人をもつことができないような、市民の支配者のようなものだからである。さらに、市民たちの会期と会期のインターバルは、君主が眠っている時間に比される。というのも、どちらの場合も、支配の現勢態actusは停止し、その潜勢態potentiaが保持されているからである。さらに、集合が解散され、二度と再び集合できなくなることは、人民の死である。それは眠って二度と眼を覚ますことができなくなることが、人の死であるのと同様だ。

(ここで力尽きた)

The Sleeping Sovereign (The Seeley Lectures)

The Sleeping Sovereign (The Seeley Lectures)

ホッブズ 市民論 (近代社会思想コレクション)

ホッブズ 市民論 (近代社会思想コレクション)

17.10.25

小雨。また台風が近づいてきているらしい。
4限に市野川先生ゼミ。R. Koselleck, Vergangene Zukunftの中から、"Vergangene Zukunft der frühen Neuzeit"を読む。難しい。Prophetie → Prognose → Fortschrittと、歴史の意味論が変化していくということなのだが、「進歩」の収まりが悪い。「進歩」を包含するのは、近代の歴史哲学だと言われるのだが、歴史哲学というのが、一般的に想起するようなものとずれてしまう感じがする。一般的に想起するというのは、例えばヴォルテールやヘルダー、カント、コンドルセヘーゲルあたりなのだが、コゼレックは、ディドロロベスピエールにそれを代表させる。そして、そのメルクマールをUnbekanntheitとBeschleunigungに求めている。このメルクマール自体も、論文内で整理されているようには見えず、かなり考えてみないとわからないし、市野川先生がある程度解説してくれたのだが、それでも今ひとつ釈然としない。この論文自体、69年のもので、Kritik und Kriseが73年なので、アイデアの萌芽と言えばそれまでなのかもしれないが。
ちなみに、Vergangene Zukunft、「過ぎ去った未来」について。
「私のテーゼを先鋭化させて定式化するなら、〔1500年から1800年までの〕この数世紀において重要なのは、歴史の時間化〔eine Verzeitlichung der Geschichte〕であり、その終わりには私たちのモデルネを特徴づける、特殊な加速化が生じた。そこで、我々はいわゆる初期近世の特色を探求する。その際、当時の人々にとっての未来から明らかになる側面、簡潔に言えば、過ぎ去った未来に、探求を限定することにする。」(S. 19)

Vergangene Zukunft: Zur Semantik geschichtlicher Zeiten

Vergangene Zukunft: Zur Semantik geschichtlicher Zeiten

論文

NEU!! 「カントの権利論」田上孝一編『権利の哲学入門』社会評論社、2017年、103-117頁。

権利の哲学入門

権利の哲学入門

圧倒的充実の全20章です。権利の哲学に関する、ここまで包括的な書物は本邦初と言ってもいいのではないかと思います。全320頁、2700円。特に第?部の現代の権利論は、現代政治理論・現代倫理学の議論が一渡り概観できる優れたものになっているのではないかと思っています。僕の論文では、あまり読まれていないカントの『人倫の形而上学』の法・権利の議論を扱いました。

目次
第I部 - - - - 権利の思想史
第1章 アリストテレス政治哲学における権利概念 - - - - 石野敬太
第2章 古代ローマにおける市民権と自由 - - - - 鷲田睦朗
第3章 トマス・アクイナスにおける私的所有権 - - - - 川元 愛
第4章 ホップスの権利論 - - - - 新村 聡
第5章 ロックの権利論 - - - - 小城拓理
第6章 ルソーの権利論 - - - - 吉田修馬
第7章 カントの権利論 - - - - 網谷壮介
第8章 J・S・ミルの権利論 - - - - 小沢佳史
第9章 ヘーゲルの権利論 - - - - 荒川幸也
第10章 マルクスの権利論 - - - - 松井 暁

第II部 - - - - 現代の権利論
第11章 現代リベラリズムにおける権利論 - - - - 高木智史
第12章 権利基底道徳と権利の正当化の問題 - - - - 伊藤克彦
第13章 権利と潜在能力アプローチ - - - - 玉手慎太郎
第14章 プロレタリアと想像力への権利 - - - - 入江公康
第15章 市民の権利 - - - - 斉藤 尚
第16章 国家は誰のものか? - - - - 近藤和貴
第17章 フェミニズムの権利論 - - - - 柳原良江
第18章 患者の権利 - - - - 勝井恵子
第19章 将来世代の権利 - - - - 永石尚也
第20章 動物の権利 - - - - 田上孝一

「カントの共和制の諸構想と代表の概念」『社会思想史研究』第40号、2016年、60-79頁。

〔社会思想史学会年報〕 社会思想史研究 No.40 [特集]〈市民社会〉を問い直す

〔社会思想史学会年報〕 社会思想史研究 No.40 [特集]〈市民社会〉を問い直す

「カントと許容法則の挑戦:どうでもよいこと・例外・暫定性」『法と哲学』創刊第1号、信山社、2015年、133-165頁。(pdfが開きます)
歴史と自然――カントの歴史論における政治的啓蒙」『相関社会科学』第23号、2014年、3-14頁。(pdfが開きます)
政治・道徳・怜悧――カントと執行する法論」『政治思想研究』第14号、2014年、356-384頁。
「カント歴史論における統治批判と自然概念――ヒューム・スミスとの比較を通して」『社会思想史研究』第38号、2014年、66-85頁。

最近頂いた本


Die Gesetzgebungslehre Im Bereich Des Privatrechts Bei Christian Thomasius
研究会とツイッターでお知り合いになった出雲さんから頂きました。ダブルドクターということで、ただただすごいなあと思います。しかも、クリスティアン・トマジウスの自然法論における私法論ということで、こちらも貴重な研究です。勉強いたします。

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

こちらは齋藤先生から頂きました。(不)平等という観点から現代政治理論を整理し、論点を明確にしている書物で、まだ第一部を読んだだけですが、果てしなく勉強になります。特に、抽象的な現代政治理論の紹介にとどまらず、現代の日本の政治状況(安全保障や原発、格差、レイシズムの問題)が論考の材料となっており、アクチュアルで刺激的です。参考文献リストも充実しており、まだ一般には膾炙していないであろう英米の最新研究も取り入れられているため、政治理論を勉強しようとする人には最適な一冊なのではないかなと思いました。

最近読んだ本:ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』稲葉振一郎『政治の理論』岡田与好『独占と営業の自由』

久しぶりに読んだ小説がこれで、満ち足りた時間だったといえばそうだったのだが、ウェルベックは一冊読むと、もうしばらく読まなくていいなという気分になりもする。ポスト・ヒューマンの世界というか、人間と欲望という重要な問題を扱っており、やはり構想力が鋭い。

政治の理論 (中公叢書)

政治の理論 (中公叢書)

稲葉先生のこちらは、共和主義を全面に押し出し、「政治」の理解を方向転換させようとするものとして、極めて興味深く読んだ。財産所有デモクラシーの構想とも言えるが、労使関係や資本主義の問題をまともに考察すれば(というか最新の経済史の考察を前提にしながら)、どのように「政治」を語ることができるのかという点で意義深い。西洋政治思想史における共和主義思想史にコミットする人は、僕も含めて、あまり現代資本主義の問題を見据えていないようなところがある(印象にすぎないかもしれない)。資本主義が生み出す格差や、新自由主義のもとに展開される人的資本論労働組合の破壊など、共和主義的な土台を掘り崩す諸論点が噴出しているにもかかわらず、だ。例えば、ネグリはかつて構成的権力を扱う中でハリントンに着目していたが、ハリントンは土地所有を基盤に共和主義を構想していた。共和主義的市民やあるいはアレント的な活動する市民・主体を可能にするためにこそ、ある種の再分配や労使関係の整備などが説かれる。

こちらは社研の岡田先生の圧倒的名著。独占禁止法は、自由主義に一見すると反しているようにみえる。法によって企業の自由な契約を規制するからだ。営業の自由の貫徹は、当然、独占禁止法とは矛盾するようにみえる。しかし、実際の所、アダム・スミスら初期自由主義者は、反独占主義者とでも言えるものであり、王権によるギルドや特権の保護(という独占)のあり方を厳しく批判したのであった。自由な行為の結果結ばれる独占契約は、しかし市場という自由の秩序を破壊しかねない。つまるところ、消費者の選択肢を広げ、公正な価格でものを購入するという自由は、営業の自由の帰結によって生じる独占と矛盾するが、しかし前者の自由の秩序のためにこそ後者の独占は禁止されるべきものだ、というのが初期自由主義の論理であった。その後、労働者の団結-独占が、今度は雇用者の営業の自由と係争関係にいたることになるが、今度は自由主義は前者の独占を、労働者の自由な労働のために容認するようになる。このように、自由主義というのは、単に国家の非介入ということではなく、一方の自由を保障するために、他方の独占を禁止したり、あるいはその逆、というように、社会の諸勢力や利害団体の葛藤に応じて、国家権力によって自由の秩序が保障されるべきことを主張する思想なのである。こうした岡田先生の見方は、日本の憲法学者との論争に至るが、例えば手元にある樋口陽一憲法』を見ても、自由な行為によって引き起こされる何らかの帰結が、全体としての自由の秩序を破壊しないように、それを規制する、という論理を用いていることが散見される。
こうした見方は、国家と自由/市場/私的領域の関係を再考するに十分な契機を与える。オルドー自由主義自由主義たるのは、国家が自由市場を構成するというモーメントを重要視しているからだ。彼らは、自由市場の保全のために、労働組合の組織なども必要だとさえ解くに至っている。新自由主義との比較に値する重要な論点。