マーサ・ヌスバウム:インタビュー「怒りはきわめて有用でもある」――右派ポピュリズムがどのようにして感情を利用し、また政治にはなぜもっと愛が必要なのか。

ドイツのZeit紙の大学生版に掲載されたマーサ・ヌスバウムへのインタビュー。政治と情念の関係について、いくつか語っています。ものすごくナイーブに聞こえますが、なかなかうーん。うーん。

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

Political Emotions: Why Love Matters for Justice

Political Emotions: Why Love Matters for Justice

哲学者マーサ・ヌスバウムは語る――右派ポピュリズムがどのようにして感情を利用し、また政治にはなぜもっと愛が必要なのか。
インタビュアー:ヌスバウムさん、あなたは正しい社会には愛が必要だと主張されていますね。感情(Gefühl)は政治的になりうるのでしょうか。
ヌスバウム:情動(Emotionen)はそれ自体では政治的ではありません。しかし、正しい社会には、正しい社会を、つまり良い法律と良い制度を愛する強く愛する人々が必要です。こうした人達がいなければ、全部ダメになってしまいます。
イ:それが愛なのだとしたら、寛容や尊重、連帯はどうなるでしょうか。
ヌ:それは極めて抽象的ですね。実際に互いに連帯するためには、人間は互いへの愛を知覚していなければなりません。税金を例に取ってみましょう。我々が税金を受け入れるのは、それを情念としても支持している場合だけです。
イ:人々に受け入れられようと思えば、目的に応じて情動を利用しなければならない、ということですか。
ヌ:マーティン・ルーサー・キングレイシズムのない世界を訴えた有名な演説を行った時、そうしたことをやってみせました。もし彼が「正義を達成するためには、平等に基づかなければならない」とそっけなく言っていたとしたら、彼は何も達成していなかったでしょう。
イ:ハンガリーのヴィクトル・オルバンやフランスのマリーヌ・ル・ペン、ドイツのフラウケ・ペトリーといった右派ポピュリストは、不安や怒りといった感情によって人々に訴えかけようとしています。政治において情念は危険ではありませんか。
ヌ:まさにドイツの人々は政治における情動を避けようとしがちなのかもしれませんね。ドイツの歴史では情動が誤った形で投入されてしまいましたから。しかしこれは無意味です。どうして悪い目的の手段に使われたからというだけで、強力な道具を手放さなければならないのでしょうか。
イ:感情によって選挙に勝つことはできるかもしれませんが、しかし良い政治はできるでしょうか。
ヌ:情動の中には思考が含まれています。たいていの場合、情動の問題に取り組む哲学者はここから出発します。私が不安を感じるときには、必ず私になにか悪いことが降り掛かってきそうだと考えているはずです。もちろん、良い思考と悪い思考がありますし、たいていの思考は非合理的です。
イ:つまり、良い情動と悪い情動があるということですか。
ヌ:情動は良いか悪いかのどちらかだ、ということではありません。もし自分の家族だけを愛するというのなら、それはあまり良くありません。自分の子供を愛することは簡単ですが、他人ならどうでしょうか。他人に自分のお金を分け与えなければならないでしょうか。しかしそれでも他者への愛が政治的に必要なのです。共感によって私達は同じ問題を共有します。多くの人にとっては、自分の近くにいる誰かへの共感しか感じないものですが。そこで決定的に重要なのが、情動の正しい使い方だということになります。
イ:不安についてはどうでしょうか。不安も有用になりうるでしょうか。
ヌ:愛や共感と同様に、不安にも二つの側面があります。今ヨーロッパに大挙して入国している難民について懸念している人がいて、彼らを殺してしまいたいと思うのであれば、その不安は非合理的で益するところはありません。しかし多くの場合、死に対する不安は非常に有益なものでもありえます。死を避けようとするからです。同じことは、気候変動に対する不安から何か行動を起こす場合にも当てはまります。そうした不安によって、環境が保護されるのです。まさにこうした不安は政治において必要とされなければならないでしょう。問題は、情動が肯定的な価値からくるものなのかどうかということです。
イ:怒りについてはどうでしょうか。それはどこからやってくるのでしょう。
ヌ:怒りは不安より遥かに複雑です。アリストテレスがうまく定義しているのですが、何かが傷つけられたと確信した時、怒りは人の心にやどります。つまり怒りに関して、不確実性と既存の状態の喪失が重要です。第二に、怒りは不正に際しても生じると考えなければなりません。最後に、怒りには報復願望も含まれています。この報復願望は当然、誰にとっても無益なものです。
イ:怒れる市民(Wutburger)という言葉をご存知ですか。この言葉はドイツでは右派ポピュリストの団体ペギダへの参加者に関して用いられることがよくあります。
ヌ:似たようなものはドナルド・トランプの選挙戦の間にも見られました。トランプは白人の失業男性たちが感じている不安、移民が仕事を奪ってしまうのではないかという不安を怒りに転換させたのです。白人の男たちの世界の没落と言われているものに対するこうした無力感は、いたるところで見られます。
イ:イギリスのブレクジットの投票を例に取ってみましょう。不確実さ、不満、拒絶といったものが投票者を駆り立てたように思われます。怒りはポピュラーなものになったのでしょうか。
ヌ:右派政党はまさに極めて意識的に自らの否定的な目的のために情動を用いていると思います。我々は情動を肯定的な目的のために用いて、ポピュリストの影響を弱めなければなりません。事実このことはすでに様々な仕方で生じていると思います。
イ:例えばどのようなものでしょうか。
ヌ:オーランドのナイトクラブでヘイトに駆られたおぞましい大量殺戮がありましたが、そのあとにアメリカの全土で警戒を呼び掛ける人たちがあらわれ、人々は愛は怒りや憎しみよりも強いのだと演説しました。
イ:それは予期せぬカタストロフのあとで起きた全国的な悲しみであって、制度化された政治ではありませんよね。
ヌ:そうです。しかし、ゲイとレズビアンのコミュニティは犯人に対して、その犯人自身も同性愛者だったのですが、怒りを表明しませんでした。というのも、彼らはヘイトの政治ではなく、とりわけ他者の疑いと挫折に対する意識と共感を持っていたからです。
イ:他の場所でも、そうしたことが起こりうるでしょうか。
ヌ:アメリカは大きく、非常に不均質なところですが、地方のレベルではまさに多くのことが当てはまります。近隣の教会の牧師が説教を行ったり、あるいは警察と教会が連携し、人種差別的な暴力を街から減らそうとしています。ヘイトに対抗するということに関して、実際あった例を挙げましょう。シカゴの私の大学の近くです。そこにはスケートリンクがありますが、誰でも無料で入ることができました。現在そこでは、裕福な学生が貧しいアフロ・アメリカンのコミュニティと対戦しています。スケートリンクの目的はこれだったのです。そしてレイシズムは犯罪と同様にはっきりと減ったのです。
イ:どうすれば怒りを最もうまく御すことができるのか、処方箋はありますか。
ヌ:様々な研究からわかっているのは、怒りは自分たちを鼓舞するものだと思う子供が多くいる一方で、そうでない子供たちもいるということです。女の子は一般的に怒りにかられることは〔男の子に比べて〕あまりありません。それゆえ、私たちは教育の場面で、男の子たちを女の子たちのように教育したほうがいいでしょう。つまり、建設的・協調的な行動を要求し、怒りに対する懐疑を求めるのです。
イ:怒れる若い女性(angry young women)のことが取り沙汰されることもありますが。
ヌ:確かに。ですが、彼女たちはセルフコントロールを高く評価しています。例えばフェミニズムを見てみましょう。それは総じて、怒りに任せた運動ではありません。この点で同性愛・トランス・インターセクシャルを擁護するLGBT運動にも共通しているところがあります。どちらの運動も多くのことを達成していますが、それはただ自分たちの要求する権利に依拠することによってなのです。他方アメリカではずっと、怒りというのはとりわけ男性的なものと考えられています。これは開拓期西部という観念に由来します。怒れるガンマンが自分たちの権利のために立ち上がる、というものです。今日、男性たちは自分たちの無力さを怒りに転換していますが、そうすることで何かを達成することができると考えているのです。
イ:芸術もまた情動を帯びることができるとおっしゃっていますね。
ヌ:もちろんです。フランクリン・D・ルーズベルトは芸術を用いるのに優れていました。世界恐慌のときに、ルーズベルトは社会改革を貫徹しようとし、失業した芸術家を雇用創出政策の枠組みで雇いました。例えば、写真家のドロシア・ラングは経済危機の犠牲者のことを記録しました。ルーズベルトは貧しいアメリカ人のイメージを、尊厳に満ちた市民として、つまり怠惰でも非力でもなく、むしろ経済的な破局に苦しむものとして、作り出したのです。
イ:私の同僚がかつてあなたについて、こう語ったことがあります。「マーサは恥ずかしげもなく善について関心を抱いている。彼女の哲学はまさに人間の改善のための知的な道具なんだ」と。
ヌ:どうでしょうか。私が関心を持っているのはとりわけ人間の複雑さです。あなたの同僚の言葉は、まるで私がそれに反対する人たちに寛容ではないみたいです。むしろ、私たちは不完全さを受け止めなければならないと思うのです。善というものは、私たちが単なる善人ではないと直観することでもあります。そうすることができないなら、嫌悪といった感情が幅を利かせていくでしょう。私が訴えたいのは、自分たちが何かを必要としていて無力な存在であると認め合う、そうした市民からなる社会です。これが私たちの人間的な政治の出発点なのです。

読書日記 『カール・マルクス――「資本主義」と闘った社会思想家』佐々木隆治

マルクス主義ではなくマルクスへ還れ、という標語でさえ陳腐なものになってしまう思想家、マルクス。内田義彦『資本論の世界』や廣松渉『今こそマルクスを読み返す』といった新書もあったことを思い出したりする(疎外論から物象化論へというフレーズも今や途方もなく懐かしく感じる)。本書は最新の草稿研究にもとづいた研究で、特に未完に終わった資本論の第二巻や晩年のマルクスエコロジー論、共同体論、ジェンダー論を論じている点に特色がある。『資本論』の要点、とりわけ価値形態論を正確に理解させてくれるのも良い。
晩年のマルクスは自らが定立した史的唯物論の法則性から漏れ落ちる現象があることを認めていたようであり、農村共同体も抵抗の拠点となりうるということを示唆していたようだが、そうだとすればマルクス以後に登場したマルクス主義の分厚い積み重ね(ポパーに歴史主義と呼ばれて批判されるような)が一挙に崩れ去りそうな気がして(例えば日本資本主義論争や日本の市民社会論など)やや虚しさを感じた。
マルクスの書くことのいちいちが非常なアクチュアリティをもって迫ってくるような現実があるということは不幸なことだと言わなければならないが、『資本論』草稿の次の一節などは、新自由主義的な統治における主体形成の問題を示唆しておりとても興味深い。

奴隷はただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の存在(…)のために労働するのではない。これにたいして、自由な労働者は自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識(またはむしろ表象)やそれと結びついている責任の感情(意識)は、自由な労働者を奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。なぜなら、彼はどの商品の売り手もそうであるように、彼の提供する商品に責任を負っており、また、同種の商品の他の販売者によって打ち負かされないようにするためには、一定の品質で商品を提供しなければならないからである。

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

こんな風にして民主主義は終わるのか/デイヴィッド・ランシマン

ケンブリッジ大学政治学者デイヴィッド・ランシマンの大統領選挙に関するエッセイの翻訳です。
センセーショナルなタイトルですが、これはいわば反語で、ポール・クルーグマンが言うようには、アメリカは失敗国家になったのではないというわけです。ランシマンの見解としては、国家の基本的な制度上の仕組みによって、ブレクジットもトランプも、結果が温和なものとなるだろうというものです。ブレクジット派もトランプ派も、自分たちの選択によって本当に国家を生まれ変わらせるような破滅的な結果になるわけではないと思っているどころか、国家が自分たちの選択の打撃を吸い取ってくれる、その破滅的になったかもしれない帰結から自分たちを守ってくれる、そう思っています。彼らがそうした選択を行ったのは、単に国家を懲らしめてやろうというそのような思いからだけだ、というのです。ブレクジットを選択しようが、トランプを選択しようが、現状は何も変わらないと分かってはいるが、にもかかわらずブレクジットを、トランプを――一抹の期待を込めて――選択してしまう。が、変わってほしいはずの国家が備えている基本的な制度設計によって、そのような変革は生じないし、ありうる危険も温和なものとなってしまう。こうしたことは、日本では(違う形ではあれ)大澤真幸が言っているように、アイロニカルな没入として理解できるかもしれません。ランシマンによれば、しかしこうした振る舞いが続けば、民主主義の基本制度は疲弊し、破壊されてしまいかねない、というのです。ポジティブな処方箋が提示されているわけではないですが、冷静な分析として、あるいはこうした「危機」のイギリスにおける経験者として、興味深いものがあります。

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選挙の夜、考えることのできないことが冷淡な現実となったことが明らかになってから程なくして、ポール・クルーグマンアメリカ合衆国は今や失敗国家(failed state)なのかとニューヨーク・タイムズ紙で問うた。たいていはアメリカの民主主義だけを見事に切り離して研究している政治学者は、アフリカやラテンアメリカに注意を向けはじめている。彼らが知りたいのは、権威主義が選挙に勝利し、民主主義が何か別のものに化けたとき、何が起こるのかということだ。テロリストを家族もろとも殺すと誓ったあのデマゴーグは、自分の家族とともに大統領官邸へと引っ越す途中である。彼が職に就く前でさえ、彼の子どもらは権力の座に種をまかれつつある。彼はテレビの中、金ピカに飾って登場し、妻はその脇、三人の子供はその後ろに整列し、パパが与えてくれるものを受け取る準備をしている。また、彼はツイッターに戻ってくると、今度は勝利を盾にして言いたい放題、新聞雑誌の論敵に食って掛かる。十歳の息子は参加するにはまだ若かったが、選挙の夜は父の側に立っていて、懐柔の意図の明白な勝利演説をトランプが行っているとき、我々の誰よりもボオっとしているようだった。懐柔の言葉の後には統治機構に対する淡々とした個人的評価が続き、子どもらはそのあいだ列席していた。このようにして民主主義は終わるのではないだろうか。

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読書日記 『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング

正義への責任

正義への責任

アイリス・マリオン・ヤングの遺作。社会的な不正義の構造を特定する必要性から説き起こし、その構造を正義にかなったものへと変革する政治的責任がいかにして分有されうるし分有されなければならないものかを論じていく。正義への政治的責任というカテゴリーを、ヤングはアレントの罪と責任の議論から取り出してくる。序文のなかでマーサ・ヌスバウムが論じているように、ヤングの責任の概念化にはいくらか曖昧なところがあるし、もっと詰める必要はあるかもしれない。しかし、印象としては、非常に説得力がある。不正義な人を弾劾するのではなく、不正義の構造を変革すること、そのために何が可能なのかということを具体的に論じているのも、説得性に貢献している。「動物化」(なんと懐かしい響きだろう!)した高度消費社会に生きて政治的無関心を貫く人らにさえ、正義に対して関心を持ちなにがしかのことをなすべき責任があることを強く論じるヤングの議論は、動物化して安穏と暮らしている人らが政治的に無関心で(つまるところ動物で)何が悪いのか、という不躾な問いにも答えられうるものだろう。ただし昔の僕であれば、なるほどと膝を打つことしきりだったのかもしれないが、今の僕にはやや高潔すぎる議論というか、強すぎるというか。こうした責任論はそれはそれとして、これを振りかざすことで果たして、当座(ヤングの言う)政治的責任を果たしていない人らが説得されるのか、その人らに訴えかけることができるのかという、効果の問題に関してはいささか不安なところがある。ヤングの議論をいっそうユニークなものにしている第6章「責任を避ける」で、彼女は政治的責任を避けさせてしまうエクスキューズの類型化を試みているが、彼女の議論の効果の点で、この責任回避の言い訳の分析はより深められうるかもしれない。
ともかくもヤングは徹底しており、それが極まるのは、構造的不正義の被害者となった人らにも、自分の陥った境遇を構造の問題として捉え返して、それを変革するために何かしらの行動をとる責任があると論じさえするところだ。こうした議論と例えば性的マイノリティのカムアウト/クローゼットといった問題は接続可能であるかもしれない。ただしruthlessという言葉を思い浮かべない訳にはいかないが。

「嘆かわしい」マジョリティ?/ヤン・ヴェルナー・ミュラー

政治学ヤン・ヴェルナー・ミュラーの大統領選に関する考察です。
ミュラーさんは、ワイマール体制やカール・シュミットの研究のほかに、近年では『憲法パトリオティズム』という著作があり、最近では『ポピュリズムとは何か』という本を出版しています。

翻訳があるといいのにと思います。

What Is Populism?

What Is Populism?

Verfassungspatriotismus

Verfassungspatriotismus

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バラク・オバマが適切に述べているように、ちょうど結果が出たアメリカ合衆国大統領選挙の投票のなかに、デモクラシーそれ自体が存在する。しかし、ドナルド・トランプヒラリー・クリントンに驚くべき仕方で勝利した以上、我々は今やアメリカ人の大多数はアンチ・デモクラシーなのだと確知しているのではないか。クリントンに投票した人らはトランプの支持者に、そして新しい政府にどのように接すればよいのか。

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読書日記 『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

はじめてのコーマック・マッカーシーSF小説なんやけど、超ハードボイルドで暗い。なぜこの人ら二人だけが(というわけではないが)生き残ってしまったのか、とかいう諸々の謎はほったらかしになって、しかしとにかく粘着質に読ませる。こうなると『血と暴力の国』も読みたくなってくる。コーエン兄弟の『ノーカントリー』も素晴らしかったからなあ。

彼らは誰なのか? ジュディス・バトラー

ドイツの新聞がトランプの当選を受けて、アメリカの知識人に寄稿を求めていました。そのなかからバトラーのものを訳しました。重訳になってしまいましたが。
http://www.sueddeutsche.de/kultur/us-wahl-amerikas-intellektuelle-stehen-unter-schock-1.3243193


中道より左のアメリカの投票者は二つの疑問に駆られている。トランプに投票したのは誰なのか、なぜわたしたちはこの結果に備えていなかったのか。「とんでもない」という言葉は、すでに自分が知っている事柄に関する感情におおよそ近いが、私たちは次のことを知らなかった。エリートに対する怒りがどれほど大きく、フェミニズム公民権運動に対する白人男性の憤りがどれほど深いものなのか、経済的な強制接収がどれほど多くの人をぼろぼろにするのか、孤立主義や新しい壁の約束、ナショナリスティックな好戦的態度がどれほど多くの人を励ますものだったのか。これは新しい「ホワイトラッシュ」なのか。白人の人々が残りのアメリカ人に付けを払ったということなのか。そしてなぜ彼らは私たちにこのように不意打ちを食らわしたのか。
ブレクジット後のイギリスのように、世論調査が疑問視されている。誰が質問され、誰がされなかったのか。回答はありのままなのか。投票者の多数が白人男性だったとか、他の肌の色の人々の多くは投票に行かなかったというのは本当なのか。民主党の候補者に新自由主義が引き起こした損失と放埒な資本主義の責任を負わせた、この怒り狂ったニヒリズムじみた公衆は誰なのか。私たちは右派・左派ポピュリズムと女性蔑視についてよく考えてみなければならない。
ヒラリー・クリントンエスタブリッシュメントの政治と同一視されている。その際、彼女に対する根深い怒りを過小評価してはならない。この怨恨は部分的には女性蔑視やオバマへの嫌悪感に由来し、また長くくすぶっていたレイシズムから引火したものだ。トランプは、口うるさい検閲官とみなされたフェミニストに対するこれまでせき止められていた怒りを煽った。それは白人の特権者を脅かす多文化主義に対する怒りであり、トランプが安全性を保証しないと述べた移民に対する怒りである。偽りの強度をともなう空虚なレトリックが勝利を収めた。それは自暴自棄そのものだったが、思っていたよりもはるかに広く蔓延した。誤って「ポスト民族的」とか「ポストフェミニズム的」と呼ばれる世界では、女性蔑視とレイシズムが判断力を飛び越え、民主主義と包摂のための保証さえも飛び越してしまう。サディスティックでルサンチマンにまみれた破壊的な感情がわたしたちの国を支配している。
しかし、私たちは何ものなのか。こうした人々の権力を目の当たりにせず、これら全てを予測していなかった、私たちは。レイシスト的でゼノフォビックな言葉を話し、性的侮辱の歴史を持つ一人の男に人々が投票するであろうなどと理解できなかった私たちは。彼は労働者を搾取し、憲法と移民を軽視し、軍事力強化へのぞんざいな計画を掲げていたのだ。私たちの浮世離れして見える左派リベラルの思考は、真理によって、私たちを守ってくれるのか。そして、政党よりもむしろ抵抗運動を行うために、私たちは何をしなければならないのか。

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ネットで"A Statement from Judith Butler"というものが流れており、この新聞記事とだいたい重なるのですが、最後の方は微妙に食い違っています。ソースがよく分かりません。
http://conversations.e-flux.com/t/a-statement-from-judith-butler/5215