ミッキーマウスの図像学

みんなが大好きミッキーマウスは、どうしてこれほどまでに人々に熱狂的に愛されるのか。
その愛され方は、例えば、僕が皮肉な顔で、あのように薄汚い鼠のどこが良いのか、お前たちは夜明けの渋谷を走破する鼠たちを嫌悪するのだというのに、どうしてミッキーマウスだけを愛するのか。同じように愛してやまないドラえもんの耳を齧ったのはまさに鼠ではなかったか、とでも言おうものなら、僕はおそらく「夢がない人間」か、あるいは人非人か、極悪的なシニシストだと、悪罵されるであろう。
だが、そんな僕でも、ディズニー・シーにこの春に初めて行ってから認識を改めざるを得なくなった。あれほど作りこまれたテーマパークはない。シニシストでさえ夢見がちにならざるを得なかったのだ。
確かに、ディズニーランドの構造は、様々な社会学者らによって論じられてきたように、テーマパークとして一級品である。世俗からあの長い道のりを経て(電車の駅からランドorシーに辿りつくまでどれほど歩かされるか考えても見るが良い)、まさに隔離された状況で夢の国へと至るのだ。シンデレラ城を中心に、外界の建物が全く見えないように配置されたディズニー・リゾートは、まさに現実世界からの離脱=夢想世界への参入を意義付けている。
しかし、このような巧妙なランド(/シー)の設計をわきに置いておいても、ディズニーへと人を引き付けてやまないのは、そもそもミッキーマウスにいくばくかの愛らしさが存在するからであろう。いや、「いくばくか」というのは正しくない。そして、ミッキーマウスだけを特権的に扱うのも正しくない。ミッキーマウスをめぐるキャラクターらの「図像学」に眼を向けてこそ、その世界観は理解されえるだろう。
ミッキーマウスが映画に最初に登場するのは、『飛行機狂』においてである。

この映画は全くお蔵入りしてしまっているため有名ではない。周知され、初期のモノクロ時代におけるミッキー登場として語られるようになるのは1928年の『蒸気船ウィリー』であろう。

しかし、これらのミッキーは、どこか現在僕らが知っているミッキーとは異なっている。

ミッキーの描写が一変するのは、1939年の「ミッキーの猟は楽し」からである。そこでは、肌の色が白から肌色へ、白目の部分が多くなるなど、様々な描写の変化がなされている。

だが、実のところ、こういったことは取るに足らない些細な変化といわざるをえない。顔の形がいびつであるとか、肌の色が違うとか、眼の輪郭が入っていないであるとか、そういうことはここでは全く重要ではない。現在周知されているミッキーと、初期のミッキーの真の違いは、別のところにある。
それは、何か。初期のミッキーが素手であるのに対して、「猟は楽し」以降ミッキーはその手袋をずっと着用しているということ、これである。実際、ミッキーは風呂に入るときでさえ、ずっとこの「白い手袋」を装着し続けているのだ。

だが、ディズニーをよく知る人なら、そしてよく知らぬ人でさえすぐに気づくことだが、この白い手袋をはめているのは、ミッキーだけではない。ミニーも、グーフィーも、クララベル・カウも、みな手袋をはめているのだ。

当然、彼らがなぜ手袋をはめているのか、という疑問が湧く。あるいは、こういった反論があるかもしれない。ディズニーのキャラクターが全て手袋をしているわけではない、と。その代表格はプルートである。グーフィーもプルートも犬であるのに、前者が手袋をしているのに対して後者は手袋をしていない。ここに見られる「手袋」の差異は何を示しているのだろうか。それは、端的に、(初期のディズニーの短編を見れば判るが)擬人化されているか否か、の差異にほかならない。つまり、グーフィーが言葉を喋れるのに対して、プルートはミッキーマウスに飼われている犬、「動物」である。プルートは擬人化されていないのだ。

だが、こういった擬人化説に対しても、反論は当然ありうる。つまり、擬人化されていながら手袋をしていないキャラクターもいるのだ。それは、ドナルド・ダックである。

ドナルドのほかにも、デイジー・ダックが手袋をはめていない。

では、なぜ彼らは擬人化されているにもかかわらず手袋をはめていないのか。ここから分かるのは、必ずしもディズニーのキャラクターにおいて手袋が動物を擬人化させる魔法の役割を果たしているのではない、ということである。だが、依然として、問いは残る。我々は、当初からむしろ次のように問うべきであったのだ。なぜ、ドナルドやディジー以外の擬人化された動物たちは手袋をはめているのか。なぜ、ミッキーマウスは手袋を四六時中、身につけるようになったのか、まるでそれが皮膚と合致しているかのように。
この問いに答えるには、ドナルドの”色”に着目しさえすればよい。ミッキーとドナルドを比較して分かることは、ミッキーの素肌が「黒い」のに対して、ドナルドは「白い」ということだ。あるいは、他のグーフィーにせよ、クララベル(彼女は黒毛である)にせよ、地肌は「白」くはない。それゆえ、結論できることは、素肌が「白」くない動物たちが擬人化されるためには、まさに「白い」手袋をはめねばならなかったということ、これである。ドナルドは、「白い」羽毛に覆われているため、わざわざ「白い」手袋をはめずとも良いのだ。先にも言ったことであるが、ミッキーその他の手袋をはめて擬人化されるキャラクターたちは、四六時中、それも風呂に入るときでさえ「白い」手袋をはめている。彼らの手袋は、もはや彼らの皮膚と見分けがつかないくらい、合致している。彼らは、手袋を外そうとはしない。まるでなにかの宗教的戒律を守るかのように、「白い」手袋を外さないのだ。ディズニーにおいては、「白」が特権視され、「白」以外の有色が否定的に扱われている、と言いえるだろう。容易に想像されるように、ここには、おそらく「アメリカ」という文脈における、白人の特権的な意識が見て取れる。 有色である動物たちは、言葉を得て、「人間」になろうとすれば、「白い」手袋をはめざるを得ない。彼らは、有色でありながら「白色」に同化する。プルートは、それを拒むため、端的に「犬」でしかない、言葉を持たない。
だが、ここで僕は、こういったミッキーマウス図像学から、ウォルト・ディズニーを中心とするディズニーの世界が、白人中心主義的であるとか、有色人種への差別を表現するものだとか、そのようなことを言いたいのではない。確かに、ウォルト自身は保守的であり、しかも人種差別的であった。だが、ディズニーの世界は、非常に逆説的なやり方で、しかもウォルトの意図をまさに裏切るように、アメリカにおける白人中心主義を脱構築してみせてしまっているのだ。
例えば、単純に、ミッキーマウスという造形を見てみればよい。普通、ねずみが描写されるとき、その皮膚は黒ではなく、灰色で描かれることが多い。あるいは少なくとも、ウォルト・ディズニーは最初からミッキーの皮膚を白色で描いても良かったはずである。もちろん、これには映画黎明期におけるモノクロ映像という、技術的制約が係わっていることは確かであろう。だが、そのようなことは、表象としてのミッキーマウスの本質を射るものではない。重要なことは、ミッキーマウスが、モノクロからカラーへの技術的進歩の後にも、黒色のネズミという設定を保持し続け、ただその手だけに「白色」の手袋があてがわれた、ということであろう。つまり、ミッキーマウスは、白人中心主義をイデオロギー的に表象しているのではなく、むしろ、黒人がアメリカという社会に入り、社会的な成功を収めるためには、必ず「白人」に同化せねばならなかったということを表象して「しまっている」。言い換えれば、ミッキーマウスは、白人中心主義的な社会を、逆説的に批判してしまっている。
ディズニーの世界が、白人中心主義への逆説的な、あるいはこう言ってよければ、「分かりにくい」批判を形成してしまっていることを示すには、「白い手袋」をはめる必要のないドナルド・ダックの存在に再び着目してもよい。ドナルドは、ミッキーとは対照を成すキャラクターである。ディズニーのキャラクター中もっとも感情的だと言ってもよく、あるいはずるがしこい悪役的な振る舞いを見せるときさえある。ミッキーが穏やかにヒーロー的な役割を果たす一方、ドナルドはいつもしくじってばかりであり、アンチ・ヒーロー的、あるいは良くても三枚目的である。

ディズニーの世界は決して、本質的・生来的な「白い」生き物が勝利するような表象世界ではない(例えそれをウォルトが望んでいようと)。生来的に皮膚の「白い」ドナルドは、むしろ、悪辣なキャラクターとして描かれているのだ。それは、アメリカの白人中心主義社会への過激な皮肉になってしまっている。保守的で人種差別主義者であったウォルトの手によるミッキーマウスたちは、筆者の意図を裏切って、筆者自身のイデオロギーへと辛らつな攻撃を加え続けている。 確かに、お決まりは、ディズニーのミッキーマウスを、グローバル資本主義的な戦略とともに、アメリカのプロパガンダとしても、全世界を席巻しつくす、「悪のネズミ(Evil Mouse)」として批判するやり方である。この批判の仕方には、確かに一定の効力はあるだろう。一見かわいらしいネズミが、その皮を一枚めくれば、アメリカの「正義」と「豊かさ」を喧伝してまわるドブネズミだということを暴露するのは、痛快でさえあるだろう。
だが、こういった批判は、全世界で実際に、現実に、ミッキーマウスが人々に受け入れられているという事態を過小評価し、さらには、ミッキーマウスに熱狂する人々を愚昧だと切り捨てることにもなる。上記の批判は、まさに、ミッキーマウスが世界中の人々から愛されている、という事実を精確に受け止めそこねているのだ。
最後に、全ての人からの愛を受け止めるミッキーマウスについて、もう少し考えてみたい。ミッキーは、悲しい。彼は自らの過去――かつては黒い皮膚をしていた――を押し隠して、「白い」手袋を始終欠かさず装着し、世界中を飛び回っている。しかし、だが、ミッキーは、自らの悲しい過去を殲滅しようとしているのではない。自らの過去を完全に消し去るのであれば、ミッキーは単純に、「白いネズミ」になってしまえば良かったのだ(マイケル・ジャクソンのように?)。だが、彼は、依然として黒い皮膚を曝して、人々の前で愛嬌を振りまいている。そのような、ミッキーマウスを人々は愛してやまない。ミッキーは、確かに、悲しい。だが、ミッキーマウスは、ある意味で、希望にほかならない。あらゆる文化の輸出とその受容は、そしてあらゆるエスニシティの持ち主の移動と定着は、「同化」ということを抜きにしては語ることができない。その「同化」には苛烈な痛みが伴うであろう。だが、ミッキーマウスは「同化」を果たしつつも、その黒い皮膚を、黒い過去を消し去らずに保持し続けて成功した、ほとんど考えうる限り唯一の希望である。

ところで、人々は、2009年、バラク・オバマという人物が、初めて有色人種としてアメリカの大統領になったことを熱狂的に迎えた。しかし、僕らは、オバマよりも前に、ミッキーマウスに熱狂していたのだ、そして今も熱狂し続けている、ということを忘れてはならなかった。僕らは、ミッキーマウスにこそ、黒い過去-皮膚と白い手袋の両方を具えた一匹のネズミにこそ、真に愛着を感じてきたのだ。そして、そのミッキーマウスを頭に思い起こしながら、いまや自らの有色的アイデンティティを完全に<アメリカ>に、「白人」に売り渡してしまった、かの"偉大な"バラク・オバマへの、急先鋒的な批判の準拠を見出しうるのではあるまいか?