浅田彰によるフーコーの整理

週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/
ぼーっと見てたら、浅田彰フーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。

(…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的な<他者>がすべてを律している、つまり個々の人間にとっては他律(ヘテロノミー)ということになります。その次のディシプリンというのは、もはや神とか王とか父はいない、だけど、個々の人間が規律・訓練を通してそのような他律を体に叩きこまれ自分で自分を律するようになる(「経験的=超越論的二重体」としての「主体」になる)状態です。そこに現れるのは自律――ただし内面化された他律としての自律なんですね。しかし、すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように、幸か不幸かディシプリンはもはや機能不全に陥り、いまや、主体化されない人間たち、バラバラのボディ・パーツの集合、一瞬一瞬で移ろう解離した感覚の束みたいな人間たちが、アノミーに近い状態で浮遊している。となると、情報ネットワークでそれらを直接に監視/管理するほかないということになり、これがコントロールと呼ばれるわけです。子供がキレるというなら、ディシプリンによってモラルを内面化するのはもう無理だから、金属探知機でナイフを取り上げろ、あるいはもっと広く宮台さんが言われたような意味でのアーキテクチュラルな枠組みの中に囲い込んで、本人が快楽を求めて行動することが自ずと秩序に同調するような形にしておけ、と。ともあれ、ディシプリンがうまくいかなくなればコントロールしかないということになり、それがセキュリティ神話と結びついて、自然現象から社会現象に至るまですべてを情報ネットワークでコントロールしよう、監視し管理しようということになるんですね。

ここは、東浩紀の言うようなアーキテクチャの議論(環境管理型権力)のもとになった、フーコーの話しですね。しかし、まあ、ここは別に大したことはない。僕が興味深く読んだのは、次のところです。

そうした状況に対して、古い他律的な秩序――国家に、あるいは家父長制的な家族やコミュニティに戻れるかといえば、戻れるわけがない、戻るとしたら最悪のゾンビに出会うしかないということははっきりしている。じゃあ、もう一回ディシプリンによって自律を生み出せるか、あるいは再帰的に自分で自分を律し社会ゲームをやっていけるかというと、それもなかなかうまくいかないだろう。

おそらく浅田彰に言わせれば、そしてみんな僕らもうすうす勘付いていることですが、サンデルやテイラーらのコミュニタリアニズム、あるいはベンジャミン・バーバーの「市民社会論」、ないしは一部の党派的な政治学者らが称揚するような「新しい公共」の運動では、もはや上手くいかないのでは、ということをばっさり言い切ってしまいます。このあたりが、浅田さんの真摯なところですね。というか、そうでなくてはならないでしょうね。ここで、フーコーの話にもう一度戻ってきます。

ここでちょっと面白いのは、フーコーが晩年に考えていたことです。彼は1970年代半ばまでソヴリンティからディシプリンへの移行を系譜学的に分析し続けてきたんだけれど、急に長い沈黙に入る(講義や言論活動は続けるものの、大きな本の出版を中断する)。そして1984年にはAIDSで死んじゃうんだけれど、死の直前に出た最後の2冊の本(『性の歴史』II・III巻)では、とつぜん古代ギリシア・ローマに戻って、「自己への配慮」とか、自分自身を芸術作品としてつくり上げていく「生存の美学」とかいうようなモチーフを、そこに見出そうとするんですね。フーコーはそこに本当の自律を見出そうとしたとも言えるでしょう。さっき、ディシプリンによって生み出される自律は、内面化された他律としての自律でしかない、と言った。そこでのパラダイムはカントだけれど、それはサドと背中合わせになっている。いわば法と侵犯という図式で、法の絶対性とそれを侵犯することの絶対性が見合うようになっているわけです。ところが、キリスト教以前の古代ギリシア・ローマには、性の問題に関しても、そういう厳格な法はほとんどない。法のないところで、自分が好きなことをして、しかし行き過ぎると自分にとってもおぞましい結果になってしまうから、自ずと程を得たところに行き着く、それが自律だと言っているわけです。法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ、と。ずいぶんきれいごとめいて聞こえますが、フーコーハードゲイSMの実践者で、晩年はとくにアメリカのゲイ・コミュニティにひかれていったんですね。SMというのはまさに法に対する侵犯でめちゃくちゃなことをやっているように思えるけれど、それはヨーロッパのキリスト教国でのイメージ、まさにカント/サド図式にそったイメージでしかない。そういう禁止から解放されたところでは、好き放題やれるわけだけれど、フィスト・ファックとかもやっているわけだから、本当に好き放題やったら死んじゃう(笑)、むしろ、だからこそ、非常に繊細な自他への配慮、苦痛を与えることがお互いにとって快楽になるようなある種の技術というのが必要になるわけです。たぶん、フーコーは、そういう現代のアメリカと古代のギリシア・ローマを結びつけながら、自律――しかも他律(法)の内面化ではない自律を考えようとしていたのではないか。
 これはもちろん「皆でハードゲイSMをしましょう」という話ではないですよ(笑)。ただ、古い伝統や秩序には戻れない、カント的な自律的主体にも戻れないとして、しかし、自由に欲望を解放することが必ずしもアナーキーに行き着くとは限らない、むしろ、自由にやっていることが自らにとって本当に快楽であり続けるためにはそこに自ずと秩序みたいなものが出てくるはずだということを、晩年のフーコーは考えていたのではないか、と。

僕はいま、フーコーの倫理論、生存の美学、自己への配慮のインタビューを読んでいたところです。しかし、読みながらもどうも切れ味が悪い、夢想的でどうにも着いていきにくいというところがありました。しかし、浅田さんはどうやら、そういうフーコーの真意を上手く要約しているっぽいんですよねー。どうなんでしょ。もうちょっと考えてみないと分からないです。