'10読書日記87冊目 『実践理性批判』カント

実践理性批判 (岩波文庫)

実践理性批判 (岩波文庫)

352p
総計27029p
カントはほとんどマゾヒストであると言っても言いすぎではない。そして、それは別にカントを批判するものでないどころか、むしろカントの思想の魅力を要約する評なのである。どういうことか。
カントの道徳哲学は、厳格すぎると言われている。確かに、カントは一切の経験的快楽ないしは幸福を道徳法則の根拠としてはいけないと言った。快楽や幸福を道徳法則に組み込まないということ、これがマゾヒストたる所以なのか。消極的な意味ではそうである。人間は、性格や癖といった傾向性を持っている。傾向性に従って行動することとは、理性的なものではなく経験的なものに根拠を持ち、自然に操られるかのように振舞うことだ。普通に考えて、自らの傾向性は自らの快を満たすように働くものである。しかし、カントはこのような経験的な傾向性を否定したところにこそ、人間の道徳性が生じると言う。つまり、真の道徳性とは(経験的)快の否定、すなわち苦にこそ見出されるというのだ。

意志の規定根拠としての道徳法則は、この法則がわれわれの傾向性を挫折せしめることによって、苦痛と呼ばれえるような感情を引き起こすことをア・プリオリに洞察できるのである。(p154)

カントの道徳法則は、人間の自然的な快楽に反し、苦痛を伴いもするものである。だが、しかし、人間は、快楽に反した苦痛にもめげず道徳法則を打ち立てねばならない。苦痛を伴う道徳法則! だが、このことはカントのマゾヒズムの消極的な一面でしかない。
カントが真にマゾヒスティックだということは、その議論の形態に関して明らかになる。カントは、道徳法則の根拠が、あるいは意志の規定根拠が、経験的なものに依存してしまってはいけないと考えた。仮に経験的な幸福(功利)を道徳法則の根拠に据えたとすれば、幸福とは人それぞれ時と場合によって変わりえるものであるから、道徳法則そのものもまた、可変的なものになってしまうだろう。では、道徳法則は、あるいは実践的に(道徳的に)行為する者の意志は、何を根拠にして規定されねばならないのだろうか。どんな規定根拠であれば、道徳法則は普遍的でありえるのだろうか。カントの回答は、こうである。理性のみを意志の規定根拠とすること、そしてこの理性が命じる定言命法の形をとる道徳法則に意志を従わせること。すなわち、人間は、自らの理性が命じる法則性を自らに課さなければ、道徳的ではありえないのだ。ところで、自分で課した法則によって自らの意志を規定するということ、この議論の形態性こそが、積極的な意味でマゾヒズムなのである。
このことは、マゾヒストとサディストが(ドゥルーズが明確に示したように*1)相互補完的なものではないという点に着目すれば、よく理解される。サディスティックな拷問者は、犠牲者をいたぶることで快楽を見出す。しかし、この犠牲者がマゾヒストである場合、本当に拷問者は快楽を見出すだろうか。もちろん、違う。サディストは、犠牲者の望まないことを為すことによって、犠牲者が本当に苦痛を覚えるという点から快楽を得るのだ。逆にいえば、マゾヒスティックな犠牲者は、拷問者にそのようなサディズムを求めはしない。マゾヒストは、自らが望む苦痛を、拷問者に与えられることを望むのだ。ドゥルーズが正しくも強調したように、マゾヒストたる犠牲者は、自らの主人に対して契約を結ぶ。つまり、一定期間、自らの身体をどうにでも扱える権限を主人たる拷問者に譲り渡すという契約を結び、その契約にのっとって、苦痛を伴う快楽(なんと逆説的だろう)を得るのだ。言い換えれば、自らが望んだ契約に自らが積極的に従うことで快楽を得ようとする者こそ、真にマゾヒストなのである。この意味で、カントはマゾヒストである。自らの理性が規定する道徳法則に、自らの意志を従わせること、これをこそカントは望むからである。そして、このように法則性に従属すること、大胆に言えば、法則の下僕になること、これこそが快楽を導くのだ。

道徳的心意は、法則によって意志を直接に規定するという意識と必然的に結びついている。〔…〕理性によってのみ意志を直接に規定することが、取りも直さず快の感情の根拠なのである。(p236)

ところで、不思議なことに、カントは、経験的な快楽や自然法則に規定されるのではなく、このように自らの理性が命ずる道徳法則のみが自らの意志を規定するということ、このような事態を自由(自律)だと呼んでいる。だが、カントがマゾヒズムなのであるとしたら、どうしてこれが自由であろうか。拷問者に虐待されて喜ぶような犠牲者のどこに自由があるというのか。法則性に従属することに、どのような自由があるというのか。
とはいえ、このような早とちりもまた、先ほどのマゾとサドの相互補完性という誤解に基づくものである。はっきりと言明するが、マゾヒストの犠牲者は自由であるが、サディストの犠牲者は自由ではない。なんとなれば、サディストは犠牲者が不自由であるということにこそ快楽を見出すからである。サディストは、犠牲者が自ら防ぎようのない苦痛や、統御できない身体性をターゲットにして興奮を覚えている。サディストの興奮の根源にあるのは、犠牲者の不自由性である。例えば、次のような通俗的な言明を想起すればいい。「お前は非常に嫌がってはいるが、身体はこれほどまでに感じているではないか、身体はこれほど素直ではないか!」つまり、犠牲者が自分で自覚的にコントロールできない不自由な部分にこそ(それは苦痛でもあれば身体的な反応でもありえる)、サディストの関心は存するのだ。他方、マゾヒスティックな犠牲者はそうではない。マゾヒストは、自らが主人と結んだ契約によって課せられた法に縛られることで、自らの苦痛を予期し、そして到来する快楽を待ち望む。したがって、カントの自由(自律)は、自らの理性以外に意志を規定するものはない、という意味に解されねばならない。言い換えれば、自らの理性以外に依存した意志の行為、すなわち自然法則や自らの傾向性に従って規定された意志は、全く自由ではない。そして、この不自由(他律)は、道徳の普遍性に傷をつけるのである。
ところで、このように考えてみると、問題はさらに深刻な相貌を見せる。それは、カントのマゾヒズム的自由が、やはりと言うべきだろうか、ほとんど事実上自由ではないということである。『純粋理性批判』において、カントは悟性によって認識される自然法則の必然性を証明した。では、全てが自然法則において生起し、自由は存在しないと言うのか。そうではない。自由は、叡智界すなわち物自体の世界においてのみ存在する*2。カントは、自然の原因性と自由の原因性という二つの原因性をあげ、人間は自由の原因性を持ち、それがゆえに自由であると説いたのだった。だが、この自由の原因性は、現象としての人間の行為にかかわるのでは全くない。現象の領域では、あまねくすべてのものが自然法則(あるいは時間的継起)にしたがっている。それゆえ、人間の行為という現象は、それ以前の何らかの条件に規定されてしまっている。自由の原因性は、そうではなく、人間の意志を規定するものであるのだ。先ほどから述べているように、意志だけは、自らの理性によって法則を課して、それに従属させることができるからである。しかし、そうだとすれば、カントの自由は、ほとんど不自由な自由だと言わざるをえない。というのも、たとえ自らの理性によってのみ規定された意志に基づく行為であったとしても、その行為が発現するや否や、すぐさま自然法則の必然性にからめとられ、時間的にそれ以前の条件に規定されたものとなってしまうのだから。
それゆえ、内なる実践理性の道徳法則を理解する者は、不可避的に原初的な罪の意識――こう言ってよければ原罪的な意識――を持たざるをえなくなる。道徳法則に意志を規定させようと望む実践的な人間なら、必ずや、自らの行為の侵犯性を知ってしまうだろう。つまり、自分は理性の命ずる道徳法則に従って意志し行為した、にもかかわらず、その行為は現象としては自然的必然性によって生起したものでしかなく、道徳法則の自律性に完全に違反している、と知るだろう。普遍的道徳法則によって為された行為であるはずが、現われとしては、経験的な快楽のために為されたものだとされるかもしれず、何らかの生理学的な反応によって行われたものだとさえ、見なされるかもしれない。それだから、真に実践的な行為者は、すでにつねに、自らの道徳法則の違反者にならざるをえない。道徳的な幸福(経験的ではなく)は、

この世界における理性的存在者が、彼の実在の全体において何ごとも望みのまま意のままになるという状態である、それだから幸福は、自然と彼の目的全体との一致に、従ってまた彼の意志を規定する主要な根拠との一致に基づいている。(p250)

しかし、行為者は、知性的存在者であると同時に、現象的な身体をも持つ。そして現象として現れた行為は、畢竟、自然法則に従属している。それゆえ行為者は、たとえいかに道徳的・実践的であったとしても

自然の原因となることができないのであり、また彼の幸福に関して言えば、彼自身の諸力を尽くしてもなお自然を彼の実践的原則と完全には一致させることができないのである。(pp250-251)

簡明に言えば、真に実践的・道徳的な人間は、自らの理性が命じる法則の完全さを認識するがゆえに、同時に、自らの不完全さを思い知るに至る。このような余りに不自由な自由は、当然、にわかには信頼することができないかもしれない。そもそもマゾヒズムに自由があるというほうが、間違っていると考えたほうがいいのだろうか。いや、決してそうではない。むしろ、カント=マゾヒズム的自由――限りなく不自由な自由――にこそ、積極的に擁護すべき点がある。カント=マゾヒズム的自由こそが、他者に配慮した自由論を切り開くことができるのだ。
一般的に教科書的な理解では、カントの道徳論は他者への配慮を欠いた、独りよがりの産物であると論難することができる。例えば、ヘーゲルはカントの道徳律の形式性の先進性を認めはしたものの、それが他者との共同性を欠いたものであり、具体的な内容を伴わないものであるとして批判している。ヘーゲルは国家の中においてようやく、具体的普遍性として倫理が達成されると考えたのであった*3。では、ヘーゲルの倫理は本当に他者に配慮したものだと言いえるのだろうか。国家の中で個人は倫理的な行動が行えると言うのだろうか。あるいは、仮に国家の中で倫理的行動が可能であるとして、では、国家の外にいる他者についてはどうなのか。果たして、ヘーゲル的個人は、国家の外にいる者に対して自らの行為の責任を感じることができるのだろうか。
カントの道徳律は、その点で、実質的な他者へと配慮したものだと言える。それは、またしてもマゾヒズム的な意味でそうである。ところで、カントがマゾヒストだと言うのなら、われわれは、最初から次のようにも問わなければいけなかったのだ。カントのマゾヒズムにおける主人=拷問者は誰なのか? この問いに答えるためには、かの有名な定言命法を見ておく必要がある。それは、こうである。

君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。(p72)

この定言命法が意味しているのは、ありとあらゆる時代の、ありとあらゆる人にとって正義となりえるような行為の要請である。カントの自律を、表面的に受け取れば、そのマゾヒズムにおける主人の位格は、理性の源泉たる自己(純粋統覚)にあると言い得るだろう。しかし、このことは浅薄である。理性は定言命法として、上記の道徳法則を意志に課すのだ。それだからこそ、主人の位格は、むしろ自己ではなく、普遍的他者に見いだされねばならない。マゾヒスト・カントが契約を結ぶ主人=拷問者は、ありとあらゆる他者である。しかし、先にも見たように、たとえこの法則に従って行為したとしても、それはすぐさま法則への侵犯になってしまうのであった。ここで侵犯と言うのは、二重の意味においてである。すなわち、第一に、道徳法則のみに従うという自律の侵犯であり、第二に、「普遍的」という格律への侵犯である。正義というものがあるとして、それは、すべからく普遍的な他者に妥当すべきものでなければならないだろう。国家や共同体だけの正義を説いても、それら同士の正義(特殊な善)はバッティングするだろう。さらに深刻なのは、未来において現在の正義が成り立たなくなる可能性さえ十二分に考えられる*4。またしても、カントの自由は不自由である。
しかし、われわれは、それゆえにこそカントが示唆的だと言わねばならない。カント的道徳者は、定言命法を認識すれば同時に自らの行為の侵犯性を理解し、その侵犯性を後悔し、罪責さえ感じるであろう。しかし、その罪責は、同時に責任である。つまり、それは、みずからの不自由さ(正義の侵犯性)への責任を、必然的に意味するのだ。ここにおいて、カントはいっそうマゾである。マゾヒストは、自らの罪責*5を贖うために、契約を結び、積極的に主人の奴隷となる。自らの罪を贖うために、よりいっそう深く契約にコミットするのだ。カントの定言命法と、定言命法に従って為された行為の必然的な侵犯性は、このマゾヒスティックな累進性を示唆していないか。つまり、カントの不自由な自由が示唆するのは、普遍的な正義を断念するのではなく、普遍的正義を為しえない自らの罪を贖うために、言い換えればその責任を果たすために、なおいっそう自らの理性が課す定言命法の法則に従属しなければならない、ということなのである。自らの正義が為されえないという後悔は、同時にその責任を果たすための実践を要求する。ここにおいて、カントの道徳哲学は、政治的含意を強く持つだろう。われわれはこの文脈において、ようやく『永遠平和のために』を読むことが出来るのではないだろうか。*6

*1:前記事参照

*2:純粋理性の第三アンチノミー参照

*3:わざわざ指摘するまでもないが、こうした議論は、現代政治思想史における、リベラリズムコミュニタリアニズムの論争に縮小再生産されたものとしてあらわれている。また、筆者は、ロールズをカントの後継者だと見なすことに抵抗を感じる。

*4:環境問題が格好の例であろう

*5:精神分析的に言えば、男性が父親と類似しているという罪の意識に捉えられ、それを戒めてもらうよう母親の位格を持つ女性に懇願する。

*6:もちろんこれらの議論は柄谷行人トランスクリティーク』に大きく影響されてしまっている。そして、最後の段落は議論が粗雑すぎる気がする。なんしか、息切れした。また、カントの崇高という観点からも考察されねばならないだろう。