読書日記 『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング

正義への責任

正義への責任

アイリス・マリオン・ヤングの遺作。社会的な不正義の構造を特定する必要性から説き起こし、その構造を正義にかなったものへと変革する政治的責任がいかにして分有されうるし分有されなければならないものかを論じていく。正義への政治的責任というカテゴリーを、ヤングはアレントの罪と責任の議論から取り出してくる。序文のなかでマーサ・ヌスバウムが論じているように、ヤングの責任の概念化にはいくらか曖昧なところがあるし、もっと詰める必要はあるかもしれない。しかし、印象としては、非常に説得力がある。不正義な人を弾劾するのではなく、不正義の構造を変革すること、そのために何が可能なのかということを具体的に論じているのも、説得性に貢献している。「動物化」(なんと懐かしい響きだろう!)した高度消費社会に生きて政治的無関心を貫く人らにさえ、正義に対して関心を持ちなにがしかのことをなすべき責任があることを強く論じるヤングの議論は、動物化して安穏と暮らしている人らが政治的に無関心で(つまるところ動物で)何が悪いのか、という不躾な問いにも答えられうるものだろう。ただし昔の僕であれば、なるほどと膝を打つことしきりだったのかもしれないが、今の僕にはやや高潔すぎる議論というか、強すぎるというか。こうした責任論はそれはそれとして、これを振りかざすことで果たして、当座(ヤングの言う)政治的責任を果たしていない人らが説得されるのか、その人らに訴えかけることができるのかという、効果の問題に関してはいささか不安なところがある。ヤングの議論をいっそうユニークなものにしている第6章「責任を避ける」で、彼女は政治的責任を避けさせてしまうエクスキューズの類型化を試みているが、彼女の議論の効果の点で、この責任回避の言い訳の分析はより深められうるかもしれない。
ともかくもヤングは徹底しており、それが極まるのは、構造的不正義の被害者となった人らにも、自分の陥った境遇を構造の問題として捉え返して、それを変革するために何かしらの行動をとる責任があると論じさえするところだ。こうした議論と例えば性的マイノリティのカムアウト/クローゼットといった問題は接続可能であるかもしれない。ただしruthlessという言葉を思い浮かべない訳にはいかないが。