'11読書日記30冊目 『ヨブ記』関根正雄訳

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

229p
総計9308p
恥ずかしながら(旧約)聖書をちゃんと読んだのはこれが初めて。朧気ながらあらすじは知っていて、神ヤハウェのちょっと神様らしくない感じが面白いと感じていたのだが、ちゃんと読めばなおさらその感も強まる(もちろんその通常の神様のイメージ「弱きを助け強きを挫く」に真っ向から相反するところがユダヤ-キリスト的な「脱魔術化」の根本たるところだと思うが)。
ある時、敬虔な一人の男――「全くかつ直く、神を畏れ、悪を遠ざけ」る――ヨブがいた。ヨブには七人の息子と三人の娘がいて、羊七千頭ラクダ三千頭、牛五百頭、ロバ五百頭、召使大勢を持つ栄えっぷりだった。そんなヨブにめくるめく悪夢が襲う。家畜や召使が他部族に略奪・虐殺されたり、火事で焼け死んだり、嵐で家が崩壊して子供たちが全員死んだり、果ては自分が治る当てのない皮膚病になる。まったく笑えない大不幸がヨブを襲うのだが、その理由がまたひどい。神がサタンと賭けをしていたのだ。神がヨブをサタンに対して「ヨブのような敬虔で悪から遠い人はいないぜ!」って自慢すると、サタンが「いや、それはヨブが物質的に幸福だからでしょ? ひどい目にあったら案外すぐに裏切っちゃうよー」と答える。神は「じゃあいいよ、ちょっと試してみなよ、あいつが死なない程度になら良いよ」みたいに軽ーい感じでヨブはまったき苦境を経験することになるのだ。ヨブの悲惨さは神(あるいはサタン)からだけのものではなくて、皮膚病になったときには妻に「こんな悲惨なことになったということは、あなたは悪人なのでしょう、早く死んだらどうか」とか言われる始末。ヨブの友達もひどくて、お見舞いに来てヨブに「辛いことあったけどやっぱヨブなんか悪いことしたんじゃねーの?神様は偉大だから悪く言っちゃだめだよー」とか言ってくるのだ。しかし、義の篤いヨブ、敬虔なヨブは神様を信じつつも、これほどの不幸に見合う罪を犯した身の覚えも無いわけで、さすがに「神様、どうしてだよ!」と神を半分呪ってしまう。しまいには、神に挑戦をいどんで、身の潔白を証だてようとする。そんな中、神が突如現れて、ヨブに答えてくれるのだけれど、それがまたなんとも慰めにならないことばっかり言い始めるのである。「君は俺の正義を否定して、自分が正しいと言うのか。俺は自然の神秘を知ってるし、あらゆることだって分かる全知全能だぞ!」とか言って自分のすごさばっかりヨブに自慢するのだ。ヨブは、最後には神の偉大な超越に屈し、自分の呪詛を撤回し悔い改めると誓い、それによって神はかつての二倍ほどの幸福をヨブにあたえてめでたしめでたし、ということなのだが。
普通の感性で読めばまったくめでたくないし、これで神を信じられるのかとむしろ疑ってしまうのだけれど、ここがユダヤ-キリストの神と、他の(同時代の)民族宗教とを分け隔てるところでもあろう。ユダヤの神は、つまるところ、自らの幸不幸は、神への敬虔さの度合いによって決まるとか、自らの善悪によって神が幸不幸の采配を振るうとか言う因果応報の神ではないのだ。訳者の関根正雄さんの詳しく分かりやすい注解と解説にも書かれているが、「ヨブ記」のテーマは、最初のサタンの神への挑戦的な言葉「ヨブといえども理由なしに神を畏れたりするものですか」にかかっている。

これは信仰における神中心と人間中心という問題、宗教における幸福主義の問題であり、人は神の故に神を信ずるのではなく、結局は自己の利益のために神を信ずるのだ、というのである。応報思想の立場ではこの幸福主義を真に乗り越えることができないことは明白である。ヨブの苦闘は彼自身応報思想を前提しつつ、そのために神の不当と見える扱いに抗議しつつ、応報思想を乗り越え、それによって宗教における幸福主義の問題を超克したものといえよう。

関根さんのヨブ記解釈の一番の特徴は、神のヨブに対する慰めにも回答にもなっていないような回答を、二つの観点から捉えるところにある。すなわち、第一に神は自らの全能性を全く誇り、自らが世界の創造者であるということ、ヨブはあくまでその被造物の一つに過ぎないことを強調し、ヨブのヒュブリス――関根さんはヨブの神への挑戦をプロメテウス的反抗と喩える――を打ち砕く。しかし、第二に、神は世界を創造したときに同時にヨブをも造ったということを言い、ヨブを含めた想像世界を「天が下のすべてのものはわたしのものだ」と強く肯定するのである。このような関根さんの読み方の背景には、創世記における混沌世界/創造世界の二段階がある。混沌世界においてはビヒモスやリヴァイアサンなる「原初動物」が跋扈している。その混沌を整理し創造の世界に変えたのは神である。つまり、ヨブは精神的にかつ身体的には、比喩において「混沌」の中に堕ちていたのだが、神の全肯定によって再び「創造」の祝福に預かったというわけなのだ。
いや、まあ、しかし、ちょっと神ひどすぎね?って思ってしまうけどやっぱりw