ホッブズの民主制論――リチャード・タック『眠れる主権者』
『リヴァイアサン』によれば、設立されたコモンウェルスは自然状態における人びとが互いに契約を交わすことによって成立する。群れのなかの個々人相互の契約によって主権が創設されるという、この驚くべきメカニズムの影に隠れて、ひそかにその群れのなかでは多数決投票が行われている。
コモンウェルスが設立されるのは、誰であれ一人の人かあるいは人びとの合議体に、人びと全ての人格を表す権利、つまり彼らの代表になる権利が、人びとの多数派によって与えられるということに、群れをなした人びと一人ひとり全てが一人ひとり全てと合意し誓約する場合である。賛成投票した人も反対投票した人も、一人ひとり全てが、その一人の人かあるいは人びとの合議体の全行為と判断を権威付ける〔…〕。Leviathan, chap.18.
ホッブズはここで、人びとが誰に自分たちを代表させる権利を与えるのかを投票することになる集会――まさに契約のために集まった人びとの集会――に、慎重なことに、名前を与えていない。
しかし、そのおよそ10年前の『市民論』では、この集会には適切な名前が与えられていた。それは、民主制である。
国家を樹立するために集合した人びとは、ほとんど集合したこと自体によって、民主制をなす。なぜなら、彼らは自らの意志で集合したのだから、多数派の合意によって決定されることに拘束されると理解されるからである。集合が続いているか、あるいは特定の日程と場所に延期されるかぎり、それは民主制である。De Cive, cap.7, 5
ここでホッブズは、『リヴァイアサン』では名前を与えなかった集会に、民主制という適切な名前を与えている。投票の結果、少数の人々に支配の権利が与えられれば貴族制が、一人の人にそれが与えられれば君主制が誕生し、同時にこの民主制は未来永劫消し去られることになる。しかし他方、そうでないケースをもホッブズは記述している。すなわち、支配者は打ち立てられるが、にもかかわらず、民主制であり続けるという場合である。それは次に再び人びとが集合する日程と場所が取り決められている場合だ。
それゆえ人民populusは、集合したい人が誰でも集合することのできる特定の日程と場所を公に知らしめ取り決める限りでしか、主権summum imperiumを保持しない。De Cive, cap.7, 5
この条件――次に再び集合する時と場所を予め告知しておくこと――を満たさないと、人民の集合体は永久に解散してしまい、再び集合する機会を逸してしまう。だが、これを満たす限り、たとえ君主が統治していようと、民主制は継続するのである。
リチャード・タックの『眠れる主権者』(Richard Tuck, The Sleeping Sovereign. The Invention of Modern Democracy, Cambridge UP, 2015)は、こうした『市民論』に記述された民主制が、後に18世紀革命期の憲法制定の際に、多数決投票を通じて活動する人民へと姿を変えるという思想史のストーリーを展開している。タックによれば、ホッブズはボダンとルソーと同じ理論的潮流に属している。それは人民主権を憲法制定の場面においてこそ発露するものだと主張する理論であり、同時にそれと裏腹に、主権と統治を区分するという理論である。主権者は、細々とした日常的・通常的な業務には携わらない。むしろ主権者は、国家の体制にかかわる根本法の決定にのみ携わりうるからこそ、主権者なのである。したがって、タックが象徴的に題しているように、こうした理論からは、我々近代国家の主権者は通常は眠っているということになる。
この表現――「眠れる主権者」――は、『市民論』で、民主制から君主制がいかにして選択されるのかをホッブズが詳細に説明する箇所から取られたものである(De Cive, cap.7, 16)。国家を設立するために集まった人民の集会が、自分たちの支配権を少数者や一人の人に未来永劫委譲するのではなく、その権利を一時的に誰かに委託する場合、その時には君主は任期制になり、国家の根本的な体制は民主制のままである。さて、人民が主権を一人の人に委託する場合、3つの可能性が考えられなければならない。
第一に、人民が君主に主権を委ねる際、予め指定された時と場所において集合する権利を人民自身に残しておいたかどうか。第二に、人民がこの権能を自らに残しておいた場合、主権の保有期間として君主に指定された任期が満了する以前に、人民が集合する権能を人民自身に残しておいたかどうか。第三に、人民はこの任期付き君主の意のままに招集され、他の仕方では招集されないということを意志したのかどうか。
ここから、ホッブズは4つのケースを導出する。第1は、主権が君主に委託されるが、その君主の死後に再び集合する日時と場所を予め取り決めておかなかった場合である。この場合、人民は集合する機会を逸し、人びとは自然状態へと解体される。第2は、君主の死後、集合する日時と場所を予め取り決めておいた場合である。この場合は、君主の死後、主権は再び集合した人民に戻る。
なぜなら、(所有権dominiumとしての)支配権はその間ずっと人民にあり、他方、その行使すなわち執行のみが、用益権ususfructusとして任期付き君主の手にあったからである。
第3のケースは、任期付き君主が存命中・任期中でありながら、再び集合する特定の日時を取り決めておいた場合である。ホッブズは興味深いことに、これをローマにおける独裁官のケースと同一視している。独裁官は主権者ではなく、むしろ「人民の第一の従僕」であり、「人民は任期満了以前であっても、彼からその行政権を剥奪した方がいいと思うなら、そうすることができる。なぜなら主権とは、本性上可能な場合には、いつでも支配するという権利にほかならないからだ」。
そして最後は、任期付き君主が選出され、人民が離散する際、君主の命令なしには再集合できないように取り決められる場合である。この場合、民主制は即座に解散され、主権は君主に絶対的に帰属することになる。
ホッブズは、こうした任期付き君主と人民の関係について、アレゴリー的に複雑になることは否めないが、絶対的な君主の比喩を用いて説明する。
なぜなら人民は、自分自身で相続人を指名しない限り相続人をもつことができないような、市民の支配者のようなものだからである。さらに、市民たちの会期と会期のインターバルは、君主が眠っている時間に比される。というのも、どちらの場合も、支配の現勢態actusは停止し、その潜勢態potentiaが保持されているからである。さらに、集合が解散され、二度と再び集合できなくなることは、人民の死である。それは眠って二度と眼を覚ますことができなくなることが、人の死であるのと同様だ。
(ここで力尽きた)
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