'15読書日記40冊目 『代議制民主主義』待鳥聡史

代議制と一口に言っても、様々な形態があり、どのような選挙制度(比例制・小選挙区大選挙区等、投票制度)と執政制度(議院内閣制、大統領制半大統領制)を組み合わせるかで、権力分立的-自由主義的な要素(多数者の専制への防波堤)を強めるのか、民主主義的要素を強めるのかが変わってくる。権力分立的-自由主義的な要素を強めるといっても、他方でそれはフリーハンドを与えられた(自由委任された)政治家のフリーハンドが腐敗してしまったりテクノクラシーに陥ることもあるし、「決められない政治」になってしまうこともある。また、民主主義的要素を強めることが多数者の専制ポピュリズム的独裁へと繋がることもある。選挙制度や執政制度を見る場合には、委任と責任の関係がどのように設計されているのか、どのような理念を内包するものであるかを考えなければならない。
こうした本書の主張はもっともであり、極めて穏当かつ納得的なものである。が、いくつか疑問もある。テクニカルなものとしては、(古典的)共和主義を市民的徳の強調としてのみみなしてよいのかというもの。文献にはポーコックの『マキアヴェッリアン・モーメント』が挙がっているが、権力分立と市民の監視という制度にこそ共和主義を見出そうとするスキナー・ペティットのラインもある。また、熟議民主主義論や一般意志2.0について、それらが代議制を破棄する方向性を打ち出している、という筆者の再反論についても、かなりの程度信憑性が疑われる(国民投票や首相公選制についてはともかく)。
これらはともかく、本書を読みながらずっと感じていた疑問が、大きく一つある。それは、本書では、立法議会における議員の活動がどのような役割をはたすのかが定かではない、というものである。マディソン的な権力分立的制度(典型的には大統領制)は自由主義的なものであると説明されており、その含意は多数者の専制を防止し、政治エリートの競争を通じて相互抑制(党派的野心相互の競争)を実現することによって、少数派の権利を守るということにあると思われる。これは納得的な説明であるが、ここで「競争」とはどのようなことなのか。筆者は本書で立法府の議員たちの活動をどう考えているのかわからない。選挙制度については多くが語られるし、人民から委任された議員がどのような政策を立てることができるか(国民の意志に沿うものかあるていど自立した活動なのか)ということも論じられているが、議員が議会内でどのような活動を行い、あるいは行うべきかということはほとんど論じられていないように思う。現代の代表制において政党の問題は外せないし、本書では党議拘束などの党内の規律についても論じられるが、議会がどのような場所なのかということは示されていない。私見によれば、議会は立法権原をもつものとして至高のものであり、そこで立法がどのようになされるのかということが重要な意味を持っている。人民意志からある程度独立に、エリートの競争を通じて、法律が作成されるにしても、作成過程が重要である。例えば、今回の安保法案のように、自民党マニフェストに載ってはいたが必ずしも第一位の重要性を持って主唱されていたのではない法案、しかも違憲性さえ指摘されているような重要法案について、立法府内で立法過程はどのようであるべきなのか。議員が人民意志からある程度の独立性を保ち、中長期的な観点から人民にとって有利な選択をなすべきだ、という議論はあっていいが、有利な選択の基準は本書では提示されない。あまりに帰結主義的である。「人民にとって有利な選択」に対するメタ評価基準として考えられうるものは、「理性的討論」というものであろう。それは別段ややこしいものではない。法案の提出者と反対者の質疑応答を通じて議会内の議員が説得され、法案の賛否が分かれていく、最初賛成派であったものも反対派に転じる可能性がある、というものだろう。さて、今般の安保法案ではこのような討論が為されていたか。絶対にそうではない。それを阻むものは、「政党」あるいは「党派性」、「党議拘束」ではなかったか。エリートの競争といっても、こうした議会でのあるべき立法過程について論じられなければ、いかなる競争なのか、結局密室での談合的取り交わし程度のものにすぎないのか、と疑問を持たざるをえない。議会制民主主義に対する不信感の一つの源泉は、党議拘束のような規律を重視しすぎる政党制にもあると思われるが、本書でそれが示されているようには思えない。