'14読書日記35冊目 "Souveränität: Herkunft und Zukunft eines Schlüsselbegriffs" Dieter Grimm

Souveraenitaet: Herkunft und Zukunft eines Schluesselbegriffs

Souveraenitaet: Herkunft und Zukunft eines Schluesselbegriffs

『主権――重要概念の過去と未来』を書いたディーター・グリムは、87年から99年まで連邦憲法裁判所の判事を務めていた法学者である。本書は、主権概念を、思想史的考察から現代の議論まで、国内的主権・国外的主権の双方を含めて、簡便に論じている。基本的な概念を整理しつつ、最終的にはEUとその内部の諸国における主権の関係まで論じていく本書は、主権概念への手引として非常に重宝されるものだろう。主権概念はもっぱら現代の国際関係の中では人気がないが、グリムは民主主義にとって――EU内部のそれにおいても――主権概念を「自己規定」の能力として把持することが重要だと主張している。
思想史パートについて言えば、ボダン以前からルソーまでを見た後、憲法国家内の主権概念の発展として、アメリカ革命に人民(Volks)主権、フランス革命に国民(Nation)主権の彫琢を捉え、その後革命を経ること無く憲法国家への道をあゆんだドイツにおいて、主権概念がどのように議論されてきたかが述べられていく。その際に、ドイツの理論家たちは君主の権力を制限しつつ、しかし主権概念の不可分性・最高位性を維持するために、国家主権(Staatssouveränität)の概念を編み出すことになる。主権は君主の人格にあるのではなく、国家そのものに引き受けられており、その人格化が君主だという議論である。国家は法秩序として主権を持つと考えられたのだ。ボダンの定義――主権は分割できず、その上位にはなにもいない、主権は至高の権力である――を受け継ぎつつ、どのようにそれをドイツの特殊な道に当てはめていくのかが焦眉の課題となっていた。他方、アメリカにおいても連邦制における主権の位置は常に問題になってきた。それは連邦政府と諸邦の関係をどう捉えるのかという文脈においてである。それは48年のドイツ革命後の連邦国家(Bundesstaat)においても問題になった。その場合には、主権概念は、もはや国家権力そのものではなく、誰が国家権力の分配に関して規定するのかということに関わるようになる。つまり、誰が自らの権能を規定し、同時にそれによって他の権能について規定するのかという、権能の権能(die Kompetenz-Kompetenz)が主権として認識されるようになったのだ。
僕として興味深いのは、憲法制定権力と主権の関係である。グリムによれば、英仏の革命は立憲主義のプロジェクトを定義したものであった。しかし、憲法国家は主権概念を放擲したわけではない。だが、立憲国家の中では最上位の権力(ボダンの定義における主権概念の枢要部分)は存在せず、憲法によって割り当てられた複数の同等の権力が併存している。立法権力でさえ、憲法律に従属しなければならない。そこで憲法国家と主権概念をめぐる隘路を調停するためには、構成された権力(pouvoirs constitué)の彼方に主権の担い手が存在することが必要になる。つまり、ここでは単に人民が主権の担い手として現れなければならない。しかし、このことは中世のモナルコマキ的伝統における人民主権と同一視することはできない。人民主権の根拠は、服従契約にあるのでもなければ、神の意志からの導出にあるのでもない。憲法国家においてはどのような権力も法(Recht)を超越することはできない。しかも法は(神意や契約内容のように)すでに存在していたものではなく、国家権力を構成し統制するために創りだされなければならなかったものである。したがって、そうした法の根源に人民が割り当てられるのである。他の正統性の根拠に依拠するとなれば、それは法を超越したものを措定することになってしまうだろう。しかし、憲法国家内部で主権の担い手として人民が登場する、ということもまた困難を招き入れてしまう。担い手という概念が行為可能性を前提とする以上、主権の人格的な担い手――それは君主制や貴族制においては自明であった――という構想が不可能になるのだ。つまり、憲法国家内部では、行為能力を行使する人民は一部であり、そうなると主権の担い手を人民という集合体に割り当てることは不適切になってしまう。従って、グリムによれば、憲法国家内部には主権は存在せず、ただその権限が存在するにすぎない。逆に言えば、主権は憲法制定権力に引き戻されて、ただその発露としては憲法制定行為だけが考えられるにすぎないことになる。憲法が妥当している限り、主権はただ潜勢力にとどまるのである。