'14読書日記36冊目 "Verfassungspatriotismus" Jan-Werner Müller

Verfassungspatriotismus

Verfassungspatriotismus

Constitutional Patriotism (English Edition)

Constitutional Patriotism (English Edition)

憲法パトリオティズム」についての概説書。英語で最初に出たものを、筆者自身がドイツ語に訳し直し2010年に出版した。ヤン・ヴェルナー・ミュラー先日のブログで訳をあげた記事でもとりあげたが、現在はプリンストン大学政治学部の教授である。憲法パトリオティズムという概念は、あまり日本の人口に膾炙しているようには思えないが、ドイツでは一時期激しい議論を巻き起こしたものであり、ハーバーマスによって主唱されたものとして業界内では有名である。本書にはハーバーマスからの推薦文が印刷されている。

わたしは、憲法パトリオティズムをめぐる議論がかつて始められた文脈を、これほど詳細で入念に政治的・思想史的に紹介したものを知らない。とりわけミュラーはこの重要な構想の見事な解釈を与えており、それは多くの誤解を一掃するものである。

ハーバーマスが述べるように、本書の一つの目玉は、憲法パトリオティズムが議論されるようになったコンテクストを明らかにした部分である。それは最初に、戦後の西ドイツ、ボン共和国において議論されるようになった。ナチス・ドイツの負の歴史をどのように理解し、それを自らの過去として引き受けていくのかという議論から、憲法パトリオティズムの概念が現れてきたのである。ミュラーはその淵源の一つに、ヤスパースの有名な罪をめぐる議論を挙げている。自由で平等な人々のもとでなされる自由で公的なコミュニケーションのなかで、市民的・世界市民的徳を求めつつ同時に罪との闘争、罪をめぐる闘争を要求することは、西ドイツ的な憲法パトリオティズムのひとつの模範となったというのだ。ヤスパースの影響下のもとで、実際に憲法パトリオティズムの概念を70年台はじめに彫琢するに至ったのは、ドルフ・シュテルンベルガー(Dolf Sternberger)である。シュテルンベルガーはマルクス主義理解に抗して、市民社会(Bürgergesellschaft)をあらゆる政治の真の目的であるとし、社会や社交のなかで自らの運命を自ら導き、国家を自ら構築するものとして市民を規定した。さらに、こうした市民概念は、祖国(Vaterland)の概念と意識的に結びつけられる。しかし、シュテルンベルガーによれば、祖国はドイツロマン主義や歴史主義が考えていたように曖昧で暗い民族の出自的母胎ではなく、市民が現実のVerfassungに自由にコミットする能力を持つ国家こそが、祖国であると言いえる。ここでVerfassungは単に書かれた憲法律を指すのではなく、政治的能力を持った市民が日常的にそこに参加し、それを再構築していくような過程、生きた憲法体制(lebende Verfassung)をも指している。憲法パトリオティズムとはこうした祖国――生きた憲法体制――において獲得される、新しい、2つ目のパトリオティズムである。シュテルンベルガーによれば、それは闘争的な民主主義(wehrhafte Demokratie)と結びついている。自由あるいは憲法の敵に対して、憲法パトリオットである市民は、常に憲法の守護者として立ち現れなければならない。ミュラーが指摘するように、ここには明白に一つの危険が潜んでいる。それは、闘争的民主主義と結びついた憲法パトリオティズムが、容易に反リベラルなもの、あるいは権威主義的なものを呼び寄せてしまうことである。
80年代になると、シュテルンベルガーの用いた憲法パトリオティズムの概念を、今度はハーバーマスが再理論化・精緻化することになる。その際にハーバーマスは普遍化可能性と自己批判の要素を付け加えた。彼はその場合、シュテルンベルガーよりも明白にヤスパースの罪の議論を強調する。ミュラーによれば、シュテルンベルガーにおいて憲法パトリオティズムが防御的パトリオティズム(Schutz-Patriotismus)であったとすれば、ハーバーマスにおいてはそれは罪のパトリオティズム(Schuld-Patriotismus)である。ハーバーマスにとって、アウシュビッツに象徴される負の歴史と批判的に対峙し、それを市民が共同で解釈していく過程こそが、ある種の文化、憲法文化を創出し、それがパトリオティズムの土台となる。伝統は無批判に享受されてパトリオティズムの基礎となるのではなく、公的な空間で再解釈され続けていくプロセスこそが、それを形成するのだ。ここにおいて、ハーバーマス憲法パトリオティズムは、それがあまりに普遍性を志向しすぎておりパトリオティズムを形成することはできないというよくある批判を免れている。自由と平等の基礎である憲法の枠内において、その憲法が現れ出てきた過去を市民が共同で解釈していくプロセスは、非歴史的なものでは当然なく、むしろ特殊歴史的な空間において現れざるをえないものだ。憲法に包含された普遍的な価値は、その実現・具現化を目指してなされる市民の議論のプロセスにおいて、具体的・歴史的な文脈を与えられている。具体的な歴史的文脈のなかで、普遍的な憲法理念が解釈・議論されていくなかで、実際に理念の普遍化の努力がなされ、そのプロセスにおいて、市民の政治的・文化的アイデンティティが形成されていくのだ。それは閉じられた・テロス的なプロセスなのではなく、普遍と特殊の乖離のゆえに常に開かれた動的なプロセスをなしている。憲法パトリオティズムは、憲法が含む理念を実現していく市民の民主主義的過程を文化的・政治的統合原理として、理念化した規範概念となる。そこにおいては、シュテルンベルガーの闘争的な憲法パトリオティズムが持つ危険――非リベラルあるいは権威主義的な態度――はむしろ、自らのアイデンティティを別のものへと開かせる一つの契機として尊重される。つまり、当初は政治的な敵、あるいは非自由主義的・非民主主義的な政治的態度だとして同定された人らでさえ、憲法が包摂する理念についてより良い解釈を提示するかもしれないのである。ハーバーマスにとってパトリオティズムの基礎となるのは、こうした自らの過去への批判的対峙のために、そして憲法の核となる理念の解釈のためになされる公的な議論である。そこでは、理性的な議論を通してパトリオティズムが、つまりはひとつの憲法への忠誠心が生まれていくことが理論化されている。ハーバーマスの議論においてもっとも重要と言ってよいことは、彼がナショナリズムではなくパトリオティズムを持ち出し、パトリオティズムの宛先を国家(あるいは地域・故郷)ではなく憲法――しかも書かれた憲法律ではなくそれが包含する自由と平等という理念――に指定していることである。これによって、憲法パトリオティズムの理論は、シュテルンベルガーを超えて、さらなる展開可能性を持つことになる。つまり、憲法パトリオティズムの動的な形成過程は一国内にとどまるのではなく、普遍的に適用可能だということである。ある特殊な文化や民族が自明的に大事なのではなく、理性的な議論を通して生まれる憲法の理念への忠誠が問題となっているのであるから、それは一国内に限定されるわけではなく、様々な地域に横断的に現れることが可能な理念なのだ。ミュラーは、実際カナダやEUの取り組みのなかに、憲法パトリオティズムを用いた議論が現れてきていることを指摘する。
第一章で、このように憲法パトリオティズムの思想史的・政治的文脈を追った後、第二章ではミュラーはその理論的な再構築を行っている。そこではマルチカルチュラリズムやリベラルナショナリズム憲法パトリオティズムの差異化が図られると同時に、憲法パトリオティズムが秩序の安定性・防御性と批判能力の二つの規範的ポテンツを備えていることが論じられる。そして第三章では実際に、憲法パトリオティズムを適用する段階――一国内で憲法パトリオティズムのもと、移民や多文化の包摂がいかに可能かというベクトルと、国家間の間で、とりわけEUにおいて憲法パトリオティズムの理念がどのように実装化されているのかというベクトル――が考察される。議論は明快で理解しやすく、憲法パトリオティズムハーバーマスと結び付けられることで安易に浴びせられてきた批判を、可能な限り論駁することにも成功しているように思われる。ありえる大きな瑕疵として考えられるのは、第一に、ミュラーハーバーマスとともに、自由と平等という近代憲法が胚胎する理念のいわば魅力を、無批判的に前提しているということだろう。本書が発表されたのは2007年であり、世界はいまだポピュリズムに依拠し人民の支持を得た極右的な勢力がいたるところで台頭する光景を知らなかった。本書は、移民の統合原理や多文化の共生原理として、マルチカルチュラリズムよりも、リベラルナショナリズムよりも、憲法パトリオティズムが優れていることを主張するが、移民は排斥されなければならない、自由や平等は誰にでも当てはまるわけではないというあからさまに憲法の理念を破壊するような議論にいかに対峙すべきなのかということについては寡黙である。第二に、本書が、自国の負の過去に対する、あるいは憲法の理念に対する絶えざる民主主義的解釈プロセスが、あたかも自動的に自然発生的に沸き起こるかのような書きぶりをしているところである。日本を含め多くの都市で問題になっているのは、低投票率に象徴されるような政治への無関心である。もちろんこの現象は、先に述べたポピュリスト的右翼の台頭と両立する。もはや政治に関心をもつのは、ポピュリスト右翼を支持する人らだけになってしまいつつあるのだ。右翼的・反リベラルな主張、憲法理念を破壊しかねない主張にも、憲法の理念の解釈にとって重要な指摘が含まれているということはいかにして可能なのか、あるいはそうした主張に対して対抗的な運動を組織しそれに市民が自発的に参加するという憲法パトリオティズムを形成する民主主義的プロセスをいかに可能にするのか、このことを本書はなおざりにしていると言わざるをえない。
とまれ、実際に日本で、とくに現在行われようとしている憲法の破壊、あるいは少なくとも無視という自己破壊的な振る舞いを深く考えるための重要な指摘を、本書は多く含んでいる。民主主義としばしば対立的に捉えられる立憲主義に依拠することなく、憲法を解釈する過程を民主主義的に重要なプロセスとして捉え、その過程を文化的統合あるいはパトリオティズムの成立過程として考える視点は、今回の一連の議論では少なくとも私見では見られなかったものだった。立憲主義の名のもとに憲法の遵守を唱える人らは容易にドイツのような憲法裁判所を作るべきだという議論に行きつく。それは、しかし同時に、憲法と市民の民主主義行為能力の関係を切断し、憲法を司法テクノクラシーに引き渡すもう一つのぬかるみ――それはある意味で権威主義的なものとならざるをえない――へと至るだろう(実際、現時点で最良のリベラルな人らが行っているのは、内閣法制局というテクノクラート集団がなしてきた伝統的な解釈を順守せよという訴えである)。長谷部恭男のように立憲主義をそのようなものとして居直るのに満足しないのならば――満足するべきではないと思うが――、憲法を一つの理念として捉え、その理念を市民が解釈し、その理念の実現のために議論していく過程において、政治的・文化的な統合が可能になると考えるならば、今回の内閣の「解釈改憲」は市民からそうした民主主義的行為能力を剥奪し、統合を破壊的にする振る舞いだと評価できるだろう。おそらく、日本では多くの人が憲法を単なる大事な法律、くらいにしか考えていないのではないか。あるいは憲法は単に憲法律だとしてしか理解されていないのではないか。それだからこそ、自分達で憲法律を起草することを保守主義者は目指し、現行憲法を「押し付けられた」ものとして考えるのではないか。しかし、憲法は単に法律の集積を表すのではなく、むしろそこに理念を胚胎している。憲法律はたしかに守られなければならないものだが、しかし理念は実現されるべきものである。その実現プロセスこそが市民に我有化されなければならないのであり、憲法律の起草過程から日本人が完全に排除されていた(この主張自体根拠の乏しいものであるが)としても、そこに書かれた理念は一つの国家や人間集団に帰されるような特殊で偏僻なものではない。憲法を守れという訴えは確かに一面では正当であるが、他方で同時にいっそう強く、理念を実現せよという訴えがなされていかなければならないのだろう。今回の解釈改憲が、このプロセス、憲法パトリオティズムを支える民主主義的プロセスを、再開――あるいは創始――するための一つの契機とならないのならば、短期的にか長期的にかわれわれを待ち受けているものは本当に目の当てられないものになるのではないか。