'14読書日記38冊目 『岩波講座・政治哲学1 主権と自由』
序 論 川出良枝
I 国家像の変容
1 マキァヴェッリ――自由と征服の政治学 鹿子生浩輝
2 ルターとカルヴァン――近代初期における身体性の政治神学 田上雅徳
3 サラマンカ学派――「野蛮人」と政治権力 松森奈津子
II 主権国家の成立
4 近代自然法論――普遍的な規範学の追究 太田義器
5 ボダン――主権論と政体論 川出良枝
6 ホッブズ――神,国家,科学 梅田百合香
III 自由の諸条件
7 イングランド革命期の政治思想――ピューリタニズムとリパブリカニズム 大澤 麦
8 寛容論の系譜――イングランド革命期の苦闘 山田園子
9 ロック――宗教的自由と政治的自由 辻 康夫
10 デスポティズムと反デスポティズム――絶対君主政下における権力と自由 井柳美紀
近代政治学のはじまりと言われることも多いマキアヴェリから始まり、近世に入って絶対主義体制が確立していこうとしているところまでです。本書の執筆陣はどの方も、思想家のテクストが書かれた歴史的なコンテクストにかなりきちんと目配せをしていて、時代や国がかぶっている章もあるため、結構細かい歴史的記述になっていても追いやすいと思います。
一章の鹿子生論文は、マキアヴェリの2つの代表作『君主論』と『リウィウス論』は整合的なのかそうでないのかという問題を、『リウィウス論』の宛先であるフィレンツェ、『君主論』の宛先である新しい国家獲得を目指していたメディチ家の君主たちという歴史を踏まえて解決しようというもの。個人的にマキアヴェリの受容史に関心があって、『リウィウス論』から共和主義的滋養を得る人らと『君主論』に悪しき君主のススメを見る人らが様々な国家に分散していて、マキアヴェリにとってのローマ共和政と後の人らにとってのマキアヴェリが同じような関係にあるということ、それぞれのイデオロギーにあった読み方をしていくというところに面白みを感じていますが、そうした受容史の長い歴史を置いておいて歴史的コンテクストにマキアヴェリを返してやると、フィレンツェ共和国の自由と発展(民主政の方向での)を目指していたのかと(『君主論』からでさえ)言えるということがわかるのですね。
二章の田上論文は、神学者の政治、いわゆる政治神学をめぐる問題を扱っています。神学上のルター・ツヴィングリ・カルヴァンの(我々にとっては微妙に見える)差異が政治的な思考にも反映されていく様子が分かりやすく論じられています。宗教改革と政治の問題で言うと、5・6・7・8・9章も宗教と政治的主権の関係を様々な形で論じており、その点で同講座2『啓蒙・改革・革命』とは毛色がかなり違っています。知識人たちが自国での宗教的迫害の危険からドイツ、フランス、イングランド、オランダとその頃のヨーロッパ内部を飛び回り、知のネットワークを形成しつつ分離して行ったりする様子は、まさに壮観というか壮絶というか。
三章の松森論文は、サラマンカ学派というやや耳馴染みのないかもしれない学派がとりあげられます。僕は去年スペインに行ってきて、全くスペインを(ドイツよりも)愛してしまったのですが、その時にはつくづくサマラン科学派を研究しておけばよかったと思ったものでした(が、それならスペイン語ではなくラテン語かと絶望したりもしましたが)。サマランカ学派は独自のすぐれた自然法思想を生み出したことで知られています。まったくそれぐらいの知識しかなかったのですが、グロティウスと違って彼ら――ビトリアやスアレツ――が理性や言語を持たない「野蛮人」でも固有の権力を持った政治社会が存在することを承認して自然法を論じていくのです。当時スペインは「新世界」を征服する過程で「インディオ」に遭遇していたのですが、ビトリアら初期のサマランカ学派は彼らを野蛮人であるとしながらも、ある種「われわれ」と台頭なものとして扱うという点でラディカルだったということでしょうか。もちろん筆者は、サマランカ学派の見解がスペインの体外進出政策において暴力による征服から植民・集住政策へと転換に寄与したと言いつつも、それが「われわれ」の法・正義・倫理の「インディオ」への押し付けであり教化という名目での征服だったという指摘をするのも忘れてはいません。
四章の太田論文は、前章のサマランカ学派とは異なる自然法思想の潮流――むしろこちらが本流と捉えられてきたことのほうが多いでしょうが――を扱います。具体的には、グロティウス、ホッブズ、プーフェンドルフ、ライプニッツらが登場します。ホッブズ、ライプニッツをのぞけば(次章のボダンも含め)全然日本語訳がないのが、初学者へのアクセスを妨げています。プーフェンドルフはもうすぐ某大学出版会から翻訳が出ると聞いたことがあるのですが…。とまれ、本章はそういう初学者のために近代自然法論の格好の入門をなしているように思われます。自然法と呼ばれるとき、そこには実定法には回収されない普遍的な人間に当てはまる法ないし道徳という含意があります。グロティウスを祖とする近代自然法も、当然しかし宗教対立や君主への抵抗、国家と教会の関係、戦争といった歴史的事実に直面して生まれた思考の産物です。そのため、どのように「自然」であるような法を体系的に考察するのか、それがなぜ妥当性を持つといえるのか、という2つの大きな問題が持ち上がってくるわけです。個人的には、プーフェンドルフとライプニッツの争いから、さらにトマジウス、ヴォルフらの議論まで含めたドイツ自然法論の著作が日本語で読めると素晴らしいのにと思っています。
第五章の川出論文は、主権論の祖として有名なボダンです。宗教戦争によって危機に陥ったフランスを前にしていかに国家内に秩序を回復するのかということが問題になっていました。ボダンが対決したのはユグノーの論者、一般にモナルコマキ(暴君放伐論者)と呼ばれるグループでした。ボダンの主権論は絶対的主権論と考えられていることが多いのですが、筆者によれば「神と自然の法」が主権の上位にあり主権を拘束するにとどまらず、主権には、王国の基本的な規定の遵守と強制的な徴税権の不可能という制限さえ与えられていました。絶対的主権論と立憲主義的要素が混在していることを確認して、次に筆者はボダンの混合政体論批判を綿密に検討していきます。カント(とルソー)の観点から興味深いのは、ホッブズにもその観点がある、ボダンの権力分立の概念です。体制(état)と統治(gouvernement)をボダンは区別し、主権と国家の管理運営を分けて考えていたのです。ただし、筆者はボダンがこうした区別によって当時のフランスの多様な社会階層に権力が分有された状態をひっくり返そうとしたのではなく、むしろそれを前提に主権概念を彫琢したということであって、ボダンの原子論的個人による契約から出てくる国家や、中間団体を警戒したルソーとは異なるということです。
六章梅田論文はホッブズの主著『リヴァイアサン』と『哲学原理』(『物体論』・『人間論』・『市民論』)が取り上げられ、同時代の政治的コンテクストにくわえ、科学史的コンテクストをともに論じることで、ホッブズの政治哲学だけでなく、その哲学的基礎づけの在り方へも理解を進めます。社会契約論の論理を追う箇所は少なく、『リヴァイアサン』と『市民論』の国家と教会の関係の異同、『物体論』・『人間論』の自然哲学的記述に多くが割かれています。面白く感じたのは、ホッブズがあるところで『人間論』について、次のようにのべるところです。「それを構成する2つの部分が互いに全く異なるという事態が生じました。この両部分はまるで深淵において結び付けられているかのようです。本書『哲学原理』)全体の方法が明らかにそのように求める以上、避けられないことでした。というのも、人間は単に自然的物体であるばかりでなく、国家の一部、すなわち(いわゆる)政治的物体の一部でもあるからです」。自然哲学と政治哲学を同一の哲学原理から導き出そうとする壮大な企ては稀ではないでしょうか。梅田論文はその意味であまり知られていないが当時は極めてよく読まれた『哲学原理』への手引になりそうです。
七章大澤論文、八章山田論文、九章辻論文はともにイングランドのコンテクストが主題になっています。大澤論文は、ピューリタニズムとリパブリカニズムの関係を論じています。この分野の古典的研究であるポーコックの『古来の国制と封建法』、『マキアヴェリアン・モーメント』のテーゼにはイングランド国教会体制がもつ宗教的な側面への考慮が欠けているとして、内戦の中で結ばれた「厳粛な同盟と契約」の内容に着目します。いわゆるシヴィック・ヒューマニズムは世俗的な面を多く持つと考えられていますが、本論文のテーゼに従えば、クロムウェルからハリントンへといたるなかで、ピューリタニズムとリパブリカニズムは相補的な関係によって共和国を支えるものになります。他方、8章の山田論文は同じイングランド革命期の宗教の状況を扱いながら、ジョン・グッドウィンというマイナーな人物を取り上げます。ウェンディ・ブラウンの寛容論を手引にして、寛容が従属化の権力を温存する契機となることが確認されたあと、そうではなかった別の寛容の在り方、正統派・主流派への従属を拒否して対等な闘争を求める在り方を追求した人物としてグッドウィンが取り上げられるのです。グッドウィンは教区制度の外で、彼のもとに自発的に集まってきた人らにむけて会衆設立を行いました。教義としても異端であるアルミニウス主義に立ちながら、宗教における真偽、正誤の二項対立的思考を退け、信仰を理性の力に求めたのです。9章の辻論文は、山田論文によって「国教会を批判しても拒否せず」「世俗為政者が統治と平和の維持のために宗教的異論を許容するという」「政治的手段や統治術としての側面も指摘できる」ロックの寛容論を扱います。確かに、ロックの寛容論は平和の確保のために欠かせない政治の「思慮」を伝えるものであるけれども、それをロックは統治の一般原則にまで高め、常になされるべきこととして宗教への介入・強要を避けるよう主張するのです。しかし、とはいえロックは道徳律の遵守を強く求め、無神論の禁止はもとより社会のモラルの改善もまた重視します。『救貧論』では、貧困・失業の増加の原因がモラルの低下に求められ、厳しい教育や規律が提唱されるのです。辻論文は、『統治二論』の契約論へも目を向けており、ロックが当時の状況に対して一定の解答を出していることを示しています。
10章の井柳論文は、フランスの絶対君主下におけるデスポティズムという批判的言説が登場してくる経緯を、ユグノーらのパンフレット、ベール、ヴォルテール、モンテスキューらの用法に着目しながら論じます。ルイ十四世によるナントの勅令の廃止がデスポティクという批判的な形容詞を登場させるわけですが、それを名詞化して用いた一人がベールでした。ベールは絶対的統治と専制を区別し、宗教と結託した権力を批判します。ヴォルテールもまたそれを批判するわけですが、ベールの無神論にまで至りかねない寛容の徹底とは違って、理神論的な立場から正義や人類愛を促進する宗教を擁護しました。両者はしかし専制批判を行いつつも秩序維持のための絶対的権力には懐疑的ではありませんでした。ディスポティズム批判の画期が訪れるのはモンテスキューによってです。モンテスキューにとってディスポティズム批判は権力分立、中間権力論と結びつき、いかに政治的自由を確保するかについての制度的な議論が生まれるのです。