'14読書日記37冊目 『真の啓蒙』"Die wahre Aufklärung: Zum Selbstverständnis der deutschen Aufklärung" Werner Schneiders

Die wahre Aufklaerung. Zum Selbstverstaendnis der deutschen Aufklaerung

Die wahre Aufklaerung. Zum Selbstverstaendnis der deutschen Aufklaerung

筆者のヴェルナー・シュナイダースはドイツ啓蒙主義研究の大家であり、初期啓蒙期のライプニッツ、ヴォルフ、トマジウスら、さらに後期啓蒙期の研究がある。本書は1974年に出版されており、もっぱら後期啓蒙期すなわち1770年代から1800年頃までの啓蒙文献を扱っている。シュナイダースが本書で打ち出したテーゼは、ドイツにおいて啓蒙は「啓蒙についての啓蒙(Aufklärung über Aufklärung)」であったということ、またそれは認識論的なだけではなく実践的な意図をもっていたということである。ドイツ啓蒙といえば、ライプニッツ、ヴォルフ、カントというラインが引かれて、まさに理性の時代、理性の光によって蒙昧を開明するという印象が強いのだが、本書でシュナイダースが開陳してみせる啓蒙は(あるいは控えめに言ってドイツ後期啓蒙は)、ヴォルフ哲学の残存、カント主義の流行、イギリスからの経験主義の流入プロテスタントカトリック双方の神学者の啓蒙などによって多種多様な広がりを見せる、混沌とした空間である。いや、混沌としているというのは正しくない。ここでは混沌が「啓蒙」という概念によってかろうじて秩序付けられているのだ。それこそ、シュナイダースが「啓蒙についての啓蒙」ということで言おうとしていることである。つまり、啓蒙とは何かという問いが絶えず発せられ答えられることで、多様な思想の傾向がある一定の潮流にとりまとめられるのである。啓蒙とはなにか、啓蒙をどう理解するのか、その議論自体がさらなる啓蒙の定義を呼び起こし、言説を増大させていく。シュナイダースが把捉するのは、かの有名なメンデルスゾーンとカントの論文「啓蒙とはなにか?」だけではない。むしろ二人の著名な哲学者は一つのエピソードにすぎず、無数のほとんど忘れられた著述家の啓蒙についての言説が取り上げられて、分析されるのだ。そこで展開された啓蒙の言説は、常に論争的で対抗関係にあり(Rival Enlightenments(!))、決して単一の啓蒙ではなく、複数の啓蒙であったのだ(このことは近年行われた、ヨーロッパの一つの啓蒙があるのか、各国の啓蒙が複数あるのかという思想史的議論にとって示唆的である。ドイツの中だけでも、すでに複数の啓蒙があるということがシュナイダーズによって70年代にはすでに明らかにされていたのだ)。しかし、本書のタイトルがAufklärungenと複数形になっていないことには、象徴的な意味がある。Die wahre Aufklärungとは「真の啓蒙」ということだが、18世紀後期のドイツにおいて争われたのは唯一の正しき真の啓蒙とは何かということであり、本来的なものの規定が他の言説の非本来性を暴露するということが相互に行われていたのである。
「啓蒙についての啓蒙」が扱うトピックの多様さは眼を見張るものがある。啓蒙する(aufklären)という動詞がそもそも何かを解明するということである限りで、まずは啓蒙についての言説は認識論に関わりを持ち、多くの論者は(経験や理性、感情を通した)概念の明晰な把握、そして偏見や慣習、臆見の打破を訴えた。それに対して、概念の明晰な把握が行き過ぎると、つまり啓蒙が行き過ぎると、あらゆる宗教的・道徳的なものが破壊されるのではないかという疑義が提出され、今度は啓蒙の範囲・限界が議論されるようになる。啓蒙は哲学者や教養市民にとってのみ必要で職人や農民には必要はないのではないか、あるいは人民啓蒙として一国のすべての人が啓蒙されなければならないのか、国家が啓蒙されるとは政治家・君主が啓蒙されていることだけを意味していて人民の啓蒙はそこには含まれるのかどうか。あるいは啓蒙が何をもたらすのかということが当然問題となっているのであるから、啓蒙の批判者に対して、啓蒙の弁明者は啓蒙がいかに有用で、人間の幸福にとって欠かせないかを主張したり、あるいは啓蒙こそが真のキリスト者へと至らせることができる、善悪を見分けることができると主張しなければならなかった。さらに啓蒙は自動詞的なのか他動詞的・受動的なのか、つまり自己啓蒙が本質的なのか他者からの啓蒙が本質的なのか。こうしてみると、カントの「啓蒙とはなにか」が実のところ18世紀後期ドイツの啓蒙を代表するものではまったくないことが分かる。あの論文の中でカントは、ただ「自己啓蒙」、「未成年状態からの脱出(これは一種の流行語になりはしたようだ)」、「自分で考えること」だけをはっきりと主張したに過ぎず(その背後には宗教的権威からの解放に加えて政治的権威である絶対君主からの解放、つまり市民の政治的権利の獲得への展望があることは見過ごされてはならないものの)、認識論的でもなければ実践道徳的な議論さえ明示的には行ってはいないのである。フーコーはあるところで、いったい脱出した人間はどこへ向かうのかと問うたが、それほどまでにカントの論文はドイツ後期啓蒙期の言説としては異例のものであると言えるかもしれない(後に『単なる理性の限界内での宗教』では「真の啓蒙」という言葉が出てきたり、『諸学部の争い』では人民啓蒙についても語られてはいるが、それを踏まえても一般的に言って啓蒙についての論争に参戦しようとするカントの意図は相対的にかなり少なかったのではないかとさえ思わせる)。
ただ、自分で考えること、宗教的にせよ政治的にせよ権威からの解放が何をもたらすのかということについて明確に口にしなかったのはカントだけではない。シュナイダースはドイツ後期啓蒙を、連続しておきたある二つの象徴的な出来事を目安にして、さらに前中後期に区切っている(章立てとして)。それは啓蒙君主フリードリヒ大王の死後とフランス革命である。フリードリヒ大王の死後に続いたのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世という敬虔な君主であり、その臣下のヴェルナーが宗教勅令を出し、言論の自由が大幅に制限されるということがあった。フリードリヒ大王治下の啓蒙の言説は、ひとえに宗教からの解放を大いに盛り上げるものであったことは間違いがない。フリードリヒはその「マキアヴェリズム*1」から、配下にあるベルリン科学アカデミーに「人民を迷信や偏見に囚われさせておくことは、国家の幸福のためになるのであれば許されることかどうか?」という趣旨の懸賞論文の課題を出させた(これによって前期には人民「啓蒙についての啓蒙」の議論が加速することになった)。それほどまでに非宗教的な君主から、敬虔的な君主の(少なくとも言論という点については)抑圧的な治世へと移行したのである。さらに、それにフランス革命が続く。これらの出来事以後の啓蒙の言説は、宗教的解放だけでなく政治的解放を謳うことを慎まざるをえなくなる。フリードリヒ大王の治下でさえ、政治的啓蒙によって共和化するということまで述べようとする人はカントを含めていないに等しかったのである(シュナイダーズが挙げる前期での唯一と言っていい例外は匿名の筆者による86年に出された「我々の時代の啓蒙と改革についての率直な意見」と題された論文であるが、そこでは皮肉的に「啓蒙された理性的なキリスト者は善き市民であるが決して奴隷ではありえないのだから、合法的権力の仮象のもとに一般化されている専制主義はその権力を失うだろう」と述べている。しかしこれにしても政治的啓蒙の帰結について明確に述べているわけではない)。一般的な傾向として、政治的な啓蒙は、恣意的な統治から法の支配への移行、人民の幸福へと配慮する統治への移行といった上からの改革を意味していたにすぎない。フリードリヒの死後にいやます反啓蒙の陣営、啓蒙批判に対して、あるいは言論の抑圧に対して、啓蒙の言説はかろうじて啓蒙についての啓蒙を続行するために、ひとつの戦略を取らなければならなかったようにみえる。それは、フリードリヒ大王治下ではほのめかすことができたであろう政治的啓蒙への要求、あるいは市民の政治的権利の要求を明白に断念して、その代わりに思考・出版の自由によって促進される啓蒙は人民の幸福(しかしどのような幸福かは明言しない)あるいは宗教的信にとって役立つ(nützlich)と弁明することである。断念されるのは政治的権利だけではない。国民啓蒙に対しては限られた個人の啓蒙が主張されたのであり、真の啓蒙は身分制秩序を維持し、それどころか身分に応じた役割と義務を理解させるということが主張されるのである。ジャコバン独裁による恐怖政治がドイツに伝わってくれば、そうした解放への慎みに加えて、反啓蒙も加速する。興味深いことは、反啓蒙の人らにとっても啓蒙概念そのものを否定することはまれであったということである。シュナイダースが示すように、啓蒙自体は(今日から見て)反啓蒙に属する言説でさえ前提としていたのだ。では、こうした啓蒙と反啓蒙の言説を可能にしたのはなにか。それこそ、本書のタイトルに示されている一つの形容詞である。反啓蒙の陣営は、反宗教的な言説、あるいはフランス革命の原因を「偽りの啓蒙」として名指し、「真の啓蒙」は君主や国家への愛国心を育み、宗教的敬虔をもたらすものだと喧伝した。むしろ蒙昧主義者が革命を導いてしまう、というわけである。フランスの啓蒙は――その世紀の前半と違って――「偽りの啓蒙」、革命を導かざるをえなかった悪しき啓蒙としてイデオロギー化される。フリードリヒ大王が宮殿にヴォルテールやラ・メトリを囲っていたのとは大違いである(もちろん例外はつきもので、マインツには革命クラブという結社があったのであり、そのメンバーの啓蒙論は政治的ラディカルだと言ってもよい。また、デンマークに属していたシュレスヴィヒ・ホルシュタインでも政治的権利や人権をめぐった議論がなされていた。しかしこれらはプロイセンの周囲で起きている)。そして1800年頃になると、啓蒙についての言説は突然死に絶える。シュナイダースは、こうして1770年からの三十年間に行われた啓蒙についての啓蒙の言説群を、ひとつの歴史的事象として捉えている。それは新しい経験――ドイツ周囲の政治的進歩でもあるいは生活環境の改善でも良いが――に対応して生み出された言説の総体であり、これらの経験がもはや新しくなくなり固定化され、そしてナポレオン戦争に伴う反動的・愛国的な経験が啓蒙の言説を凌駕したのだろう。シュナイダースが追うのは、その死に絶える瞬間までであるが、その僅かな期間に生み出された啓蒙の言説の生産とその半ば虚しく実ることのなかった不毛さを、詳細に伝えている。不毛さといったのは、結局われわれ現代の人がドイツ啓蒙を想起するときに、特殊な位置にいたかもしれないカントの議論をまずは思い起こすからであり、その周辺で繰り広げられた夥しい数の言説は忘却の淵に落ち込んでいるからだ。シュナイダースはこれらの不毛な結果を産んだ言説に意味付け、歴史的な意味付けを与えることに成功しているように思われる。
理性への希望―ドイツ啓蒙主義の思想と図像 (叢書・ウニベルシタス)

理性への希望―ドイツ啓蒙主義の思想と図像 (叢書・ウニベルシタス)

*1:国家理性と言い換えても同じことだが、彼に道徳と権力への意志の二律背反を見るというあまりにマイネッケ的・通説的な見方は、屋敷二郎『規律と啓蒙――フリードリヒ大王の啓蒙絶対主義』(1999)によって正されることが必要だろう