'14読書日記21冊目 『近代国家の覚醒』ゲルハルト・エストライヒ

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

「近代的権力国家の理論家 ユストゥス・リプシウス」、「ドイツにおける身分制と国家形成」、「ポリツァイと政治的叡知」の三本の論文の邦訳。それぞれに解題が付されている。個人的に興味深いのは、第一・第三論文であつかわれる、ドイツの新ストア主義的な政治思想である。政治的叡知と訳されているのはprudentia civilisという訳語なのだが、それが16世紀以来のドイツの統治思想、絶対主義的政治思想にいかに影響を持ったかということが、大々的に取り扱われている。統治思想が新ストア主義的だというのは、それが世俗の実践に関わる事柄を重視し、理性によって行為・欲望を抑制し、道理に適した秩序を作るという発想を持つからだ。宗教戦争下のヨーロッパで、宗派対立から脱するために、人文主義的・ローマ的・ストア的な発想が蘇らされるのである。prudentia=叡知は、国家の安全と公共善を首尾よく実現するように統治するために必要な性質とされたのだ。このprudentia civilisの概念のもとには、例えば興味深いことに、「歴史」の統治への適用という事柄も含まれてくる。歴史は諸国家の変遷の認識であって、それは統治実践に有用なものとして著述されたのである。エスライヒはリプシウスとその後継者――彼らは共々ホッブズやボダンの陰に忘却されてきたのだが――が16-17世紀にかけて猛威を振るった新ストア主義的運動であったと特徴付けている。この事自体は正しいのかもしれないが、この運動とポリツァイの関係、あるいはキリスト教的統治実践との関係が、疑問として残る。ポリツァイはもともと「秩序」を意味する概念だったが、アリストテレスキリスト教へと取り込まれて以来、統治思想のなかでは、神の意志―統治―秩序という三項が常に同時に語られてきた。新ストア主義の運動では、神の意志が公共善へと置き換わるわけであるが、リプシウスよりも後にはキリスト教的ポリツァイ論も登場してくることになる。この辺りの関係が錯綜していて、よく分からないというのが今のところの僕の疑問。