'14読書日記20冊目 『〈根源的獲得〉の哲学 カント批判哲学への新視覚』山根雄一郎

ア・プリオリ」といえば、カント哲学を特徴づける言葉であるということはだれでも知っていることである。が、それが「生得的」であるということとどう違うのかと問われれば――実は哲学史的には両者の差異は常識に属することなのだが――答えに窮してしまうかもしれない。本書は、こうしたカント批判哲学の中枢であるア・プリオリ性に、「根源的獲得」という概念から迫っていく。「根源的に獲得する」という表現は、『純粋理性批判』に出てくるのではなく、それに対してヴォルフ派の哲学者エーバーハルト(J. A. Eberhard)から向けられた批判に対して答えた、『純粋理性の一切の新しい批判は以前なされた批判によって無用とされるはずだ、との発見に関して』(1790)という論考のなかに登場する。

批判は、なんであれ賦与された表象ないし生得的な表象を絶対に許さない。そうではなく、批判は、諸表象の帰属先が直観であろうと悟性の諸概念であろうと、それらを総じて獲得されるものとみなす。しかし(自然法学者たちが述べるような)根源的な獲得、つまり以前には全く存在せず従ってこの作用に先立ってはいかなる事物にも属さずにいたものを根源的に獲得する、ということもあるのだ。そうしたものとは、批判が主張するように、第一には空間と時間とにおける諸物の形式、第二には諸概念における多様なものの総合的統一である。というのも、これら二つのうちのいずれをも、私たちの認識能力は、客体から――客体それ自身のうちに与えられたものとして――引き出してくるのではなく、それら二つを認識能力それ自身のうちからア・プリオリに成立させるからである。

この一見何気ないカントのヴォルフ派の論難に対する自己弁護のなかに――しかし自己弁護であるがゆえにむしろ批判哲学への明白な手がかりを含むことが予想されるのだが――、筆者は、生得的/獲得的/根源的獲得的という三項の緊張関係を見出す。当時の文脈において、とりわけライプニッツ・ヴォルフ学派の文脈において、「生得的」というのは神によって悟性的・知性的な表象が人間に賦与された(植え付けられた)有り様を指す。他方、「獲得的」というのは、ア・ポステリオリと同じで、経験が事後的にしか成立しないこと、概念が感覚から形成されるということ、つまり経験論・懐疑論の立場を指している。これら二つの項に対して、緊張関係にあるのが「根源的に獲得する」という認識の有り様を指す批判哲学である。では、「根源的獲得」とはどのような事態を指すのか。このことを本書は探求しているのだ。
端的に言えば、認識における根源的な獲得という作用は、神によって植えつけられた表象を介して認識-経験が成り立つのではなく、一切の個別的な経験認識に先立って、感性的に触発され、それによって生じた自己表象に悟性概念を適用し、経験認識を可能にするあり方を指している。「根源的」という語は、ここでは時間・空間の枠外に設定されて仮設される認識の契機を表しており、卑俗に言い換えれば、神概念というよくわからないものに訴えることを放棄した以上、受容的な感性と自発的な悟性の協働によって経験認識が可能になるという説明を理念的に設定せざるを得ないという、この「設定せざるを得なさ」を意味していると言っていい。本書によれば、「批判期の「根源的」なる限定詞は、己の在り方を規定ないし正当化する一層高次の存在をもはや持たない仕方で、人間という存在者をそれとして存在させる制約の特徴付けに関わる」のである。従来注目されてこなかったこの「根源的獲得」という契機を、批判哲学のア・プリオリ性の核心に捉え、それを認識論だけではなく実践哲学や美学でも展開してみせる本書は、極めてスリリングな哲学的冒険になっていると思う。
筆者は、「根源的獲得」についての先行研究であるMichael Oberhausen, 1997, Das neue Apriori. Kants Lehre von einer "ursprünglichen Erwerbung" apriorischer Vorstellungen, Stuttgart-Bad Cannstatt:Frommann-Holzborg.とちがって、先の引用にあるカントの「自然法学者」たちへの言及を手がかりにして、「根源的獲得」に迫っていく。が、法論における議論の詳細は、認識論への議論の「触媒」として使われるだけで、簡略化されているため、ここで補足しておきたい。法哲学書である『人倫の形而上学・法論』のなかで、カントは所有権(私法)をめぐる議論のなかで、根源的獲得とは何かを説明している。それによれば、根源的に何かを取得するということは、誰か他の人の所有から導き出すことなしに、何かを取得するということである(6:258)。(この時点で?が頭のなかでいっぱいになるのをおさえつつカントに耳を傾ければ)他の人の所有から何かを取得する(把捉し・占有する)とすれば、それは他の人の自由を侵犯することになるだろう(カントの言葉で言えば「普遍的諸法則にてらして他の人の自由と矛盾することになる」)。したがって根源的に何かを取得するということは、誰にも帰属していない対象についてしか可能ではない。より卑俗な言い方をすればこうなる。つまり、何かを取得した――根源的に取得した――と言えるためには、誰よりも先に、あるものを占有しているということが必要であり、つまりは早い者勝ち、が条件になる。しかし、カントはこの極めて平凡で誰もがそりゃそうでしょと思わざるをえない根源的獲得の条件――早い者勝ち――に、なるほどやはり批判哲学者だと言える疑義を向ける。根源的獲得が早い者勝ちなのだとすれば、それは結局その占有を行った人ひとりの恣意がその獲得の根拠をなしているということになるが、そんなことがありえていいのだろうか。一般に、「事実として」、人が何かを正当に取得しているということがある。しかし、その正当性はいったい何に認められるのだろうか。例えば、労働によってりんごを栽培した人がいて、その人のりんごを手に入れる時に、お互いが契約を結ぶのであれば(りんごを100円で売買する)、その場合は双方が契約に合意しているのであるから、買い手が買ったりんごは正当にその人の所有だと言えるだろう。しかし、土地についてはどうか。労働によって獲得されるものとはちがって、土地については、こうした双方の契約が成り立つということが原理的にはありえない(ここにロック所有権論との著しい対比があることは明らかである)。というのも、土地はその人の労働の産物としてではなく、所与のものとして存在しており、その土地を正当に所有するには、結局のところ先占(早い者勝ち)という根拠に訴えるほかないからだ。しかし、そうした早い者勝ちは、その先占者ひとりの意志(恣意、カント用語では選択意志)を表しているにすぎないのであり、労働の産物の売買とは違って決して契約という形――双方の意志の合致――をとることはない。しかし、この早い者勝ちによる土地の取得――取得者の恣意による占有――以外に、土地の取得に関しては適法なやり方は見当たりそうにない。こうした法的な難問を引き起こす事実が存在する。しかし、批判哲学者であるカントが問題にするのは、「事実、その人が誰よりも先にその土地を取得した」ということではなく、どうすればそうした早い者勝ちを正当とみなすことができるのか、という「権利」に関わることである。カントによれば、こうした早い者勝ちの恣意による土地の占有は、それが正しいものであるためには、共同の占有であるとみなさなければならない。つまり、ある人の早い者勝ちの土地の占有を、その人だけの恣意の表示とするのではなく、他人との共同の占有として他人との契約が成り立っていると仮構せざるをえない、というのだ。というのも、カントによれば「もしも地表が無限の平面であったならば、人間はそこに散らばることができたので、互いの共同体をつくることもまったくなく、したがって共同体が人間が地上に生きることの必然的帰結であることもなかったであろうからである」。逆に言えば、「球体の表面である地表のすべての場所は一体をなしているがゆえに」、すべての土地は共有しているとみなさざるをえない(6:262)。しかし、この共有の在り方は「根源的」であって、一切の法的行為に先行し、経験的・時間的な条件を度外視した理性概念のもとに配備されたものである。言い換えれば、この根源的な共有の状態は、歴史的に存在した土地の共有を意味するのではなく、単に土地の適法的な取得(という事実)がいかにして可能かを説明するために、論理遡及的に設定されるものなのだ。ここからは当然、たとえば新約聖書に見られるように、神が人間を土地の管理者としてその所有を認めるというような(神学的に)生得的な議論構成も、また他方で、ロックのように(ロックも新約の議論を下敷きにしているが)労働を加えて獲得されるというような事後的な構成も排除されている。この「根源的獲得」の議論が、三批判書を貫いて人間の認識能力の作用をめぐる「ア・プリオリ」な議論立てに息づいている、というのが本書の明らかにした、最大のポイントなのだ。
簡潔に言えば、事実問題と権利問題を区別し、後者を問う視点として「根源的獲得」という契機を導入するカント哲学の画期を、本書は示しているのである。とはいえ、『法論』の議論を参照するのであれば、やはり認識論に移し替えられた「根源的獲得」のアレゴリーと、『法論』での実際のそれの含意の異同を明確にして欲しかった、という感じもしないでもない。というのも、私見によれば、『法論』における「根源的獲得」の議論は、認識論におけるのと違って人間の認識という事実の位相を(神や感覚によらずに統制的に)説明するだけにとどまらず、事実それ自体の変革をも含意するからである。認識論における感性的直観の形式(時間・空間)や悟性概念の根源的獲得という議論は、現に人間が何かを認識している際に、その認識を可能にする根拠を、何らの経験的なものにも基づかせず、さりとて神などといった人間より高次の知性的存在にも結びつかせずに、説明してみせるために導入されていた。つまり、事実がいかなるようにして存在しているか、その権利を問う視覚として導入されていた。しかし『法論』における根源的獲得-根源的共有という議論は、単に現に存在する土地の取得という事実を説明するために導入されているだけでなく、そこから「根源的契約」という契機を介して、さらに現実の政治・法の枠組みを書き換えるような理念をも提供しているのである。言い換えれば、『法論』における根源的獲得・根源的共有・根源的契約の議論は、今ある政治的・法的状態がいかにして存立しているかという事実の権利を説明するだけでなく、本当にそれらがどうあるべきか、どうなければならないかという当為を構成してもいるのである。根源的共有は、根源的取得を可能にするための窮極の根拠をなす理性概念(理念)であったが、その含意は、恣意の表示でしかない土地の占有に対して、すべての人間がその土地を共有しており、その共有の中からある土地をその人の占有物として許可しているという形で、いわば擬似的に契約を――あたかも労働の産物であるりんごの売買の時のように、関与している全ての人の意志を合致させる契約を――仮構する、ということにある。このように仮構される契約、そこで全ての人の意志が合致する契約を、カントは「根源的契約」と呼ぶ。

[土地の占有のように]一方的な意志が外的な取得を正当化することができるのは、その意志が、ア・プリオリに統合されて(つまり互いに実践的に関係しあうことになりうる全ての人の選択意志の統合による)絶対の命令を下す一つの意志に含まれている限りでのことでしかない。というのも、一方的な意志(それには双方的であっても特殊である意志もくわえられる)は、それ自体偶然である拘束を誰に課すことも出来ないからである。拘束を課すには、一つの全般的な意志が、偶然にではなくア・プリオリに、それゆえに必然的に統合した、したがって立法する意志が必要である。というのも、そうした意志の原理に従ってのみ、どの人の自由な選択意思も、全ての人の自由と調和することが、したがってそもそも権利というものが、それゆえにまた外的な私のもの・あなたのものが可能になるからである。(6:263)

こうして、土地の根源的獲得を説明するために導入された根源的共有の概念から、「ひとつの全般的な意志」が「立法する意志」として要請され、実際に、その全ての人の意志が立法する状態、つまり共和制がなければ、根源的取得が正しい権利(これはドイツ語では畳語であるが)として可能にならないということが明らかにされるのである。確かに、土地の取得という法的な現実の権利を問うていたはずの議論(事実を権利問題として問う議論)が、いまや、権利が現実に可能になるために設立されなければならない国家体制をめぐる議論にまで進捗し、当為の議論にまで及ぶのである。このことは、認識論における根源的獲得の議論と決定的に違う点として明記されなければならない。たしかに認識論において、認識の当為を問うことなど、馬鹿馬鹿しいことだろう。しかし、そもそも法権利の議論において用いられた根源的共有・根源的契約という理性概念は、法状態の当為を指しても何ら不思議ではないし、むしろ当然だと言っていいだろう。