14'読書日記39冊目 『文士と官僚』西村稔

文士と官僚―ドイツ教養官僚の淵源

文士と官僚―ドイツ教養官僚の淵源

ドイツといえば、教養・官僚というイメージがとりわけ日本では強い。本書は両者を知識社会学的ないし歴史社会学的に考察したものである。大量の二次文献を整理して提示しつつ、啓蒙・教養・文士・官僚といった離れつつも絡まり合い展開されていく概念の歴史を描出することに成功している。およそ15世紀から19世紀末までにいたる、いわゆるエリートたちの知・権力・財力の攻防戦が明らかにされる。大きく区分すれば、16-17世紀は新人文主義の時代、18世紀は啓蒙主義、とりわけ実用主義的な運動としてのそれ、19世紀の教養主義と区分されるだろう。知を持った人々、Gelehrteと呼ばれる人らの活動するフィールドもそれぞれの時代ごとに変化していく。大学から宮廷顧問官へ、そして官僚へと上方に知が移動していくと同時に、今度は官僚的な知のあり方、つまり統治に有用な知のあり方が基準となって、大学の講義が役に立たないものとみなされる。大学から溢れでた、あるいは大学を通過しない知のあり方も印刷・出版の普及とともに広がっていき、やがて市民的公共性と呼ばれるところに膾炙していく。しかし知が大衆に普及し始めると、今度は再び通俗性/教養性といった対立軸が生じ、知のメインフィールドは専門性を備えつつ教養主義的な大学教育、官僚機構へと還っていく。こうした大学と国家権力、大学と公衆のあり方の変動と、互いが互いを批判しあっていく知の歴史社会学を読んでいると、ずっと何年も同じような議論が繰り返し日本でなされてきたことを思い、やるせない気持ちになる。本書自体は、ライプニッツやヴォルフ、トマジウス、メンデルスゾーン、カント、フリードリヒ・ニコライ、フェルディナンド・クライン、レッシング、ゲーテフィヒテシェリングフンボルトヘーゲル、サヴィニーら、主要な人物の学識・教養・啓蒙に対する言説を、手際よくまとめてくれており、見取り図として大変勉強になる。ドイツの教養主義に多分に影響されている日本の教養主義旧帝大のそれ)のいやーな感じ(僕もそれをひきずってますが)については、こちらが大変面白かった。
グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

幅広い展望を備えた好書であり、教えられたことは無数にあるが、疑問に思わざるをえない点もあった。第一に、本書の一つのキーワードは、カントが『啓蒙とはなにか』のなかで述べた「好きなだけ議論せよ、しかし服従せよ」を導きにして、官僚が文筆家(人間)/国家の従者という二重の形象を帯び始める過程を言い表した「ヤヌス」である。ドイツ史では「ヤヌス」という言葉が極めてよく使われるが、この言葉を使うと何か言った感が出るので要注意だと、私は思う。大抵の人間存在、あるいは18世紀以降の人間学的形象には二重化がつきものだからだ。本書では具体的に概念規定が為されているのですんでのところでバズワード化が避けられているが、ヤヌスの形象に触れるのであれば、超越論的-経験的二重体の表象へと展開されなかったことが惜しまれる(カントにおいては世界市民/一組織の従僕の重ね合わせは、叡智的存在者/感性的存在者への類比を暗示してはいないか?)。あるいはライプニッツは典型的に外交官でありつつ著述家(哲学者)であるという「ヤヌス」でありえたし、ヴォルテールもそうだったろう。彼らは時代的傾向から外れた特異な例外だったのだろうか。「ヤヌス」は見つけようと思えば、割かし容易に見つけられるものである。また、本書は、知一般のあり方、あるいは学識・教養のあり方と個人の権力への上昇過程のつながりは取り扱われてはいるものの、それぞれの知のサブフィールドで何が起こっていたのかは知ることができない。法律や文学の議論はなされるが、たとえば歴史や科学、哲学といった分野では何が起こっていたのか、そこのところはうかがいしれない。一般に19世紀のベルリン大学フンボルト大学ベルリン)の創設によって、実用主義から全人的な教養主義へと舵が切られると言われるが、同時に学問の体系も大幅に見なおされ学問が専門化・分化していくということが起こってくる。こうした一見2つの相反する運動は、どのように捉えられればよいのか。本書は後者についてほとんど扱っていないように思われる。また18世紀の大学に関して、ハレ大学-ゲッティンゲン大学の影響力あるいはそこに属した学者らの知的生産性は眼を見張るものがあるが(これについては筆者が依拠しているNokter Hammersteinの研究が取り扱っているはずなのだが)、筆者は17世紀から18世紀にかけてドイツで大学が凋落したと書かれている。あるいは、18世紀から19世紀にかけて、ドイツではイデオロギー的な衝突が水面下で多数なされるようになっていくが、フランス革命の影響への評価も弱い。そうした政治的イデオロギーは学識と権力の結びつきに影響を及ぼさなかったのだろうか。
もっとも問題だと思われるのは、自然法論者あるいは啓蒙的著述家の知と権力のありかたを描くのであれば、宗教的権力との関係も問題にならざるをえないはずだが(例えばヴォルフ、トマジウスのライフコースを考えれば良い)、それは少なくとも十分に扱われているとは言いがたいということである。問題となっていたのは、彼らの「学識」の内容と宗教的教義の関係であった。18世紀初頭にはいまだPietismusは優勢であり、キリスト教の教義における「学識」というものをも評価しなければ、片手落ち感は否めない。さらに、より概念史的な問題になるが、本書では啓蒙を実用主義として表象する際に、啓蒙主義者が使ったWeisheitとKlugheitをほぼ同じもの、どちらも幸福を獲得するものとして描いている。ヴォルフとトマジウスは明らかに異なった哲学体系、学問体系を志向したが、両者の学問が「幸福を目指す」という点で一括りにされ(トマジウスの後年の自然法の著作の転換をどう捉えるのかという問題もあるし、両者の幸福感が同じかどうかにも問題がある)、同時にトマジウスのKlugheitとヴォルフのWeltweisheitが同一視される。Klugheitはprudentiaの訳語であり、特殊にドイツの政治学・公共の福祉論の負荷を帯びたものである。これは筆者も指摘しているが、しかしそれとヴォルフのWeltweisheitを同列に扱ってよいかは疑問である。