'15読書日記12冊目 『統治新論』大竹弘ニ・國分功一郎

こういう対談本を読んでみて読者が、この人らの話を聞いて充実していたな、いろんな事へと考えがつながっていく気がするな、というような感想を抱く時、そういう対談本は成功しているのだと思うが、そういう意味で本書はまったく成功している。対談本の醍醐味は、例えばプラトン後期の対話篇のようにあるいはインタビューのようにどちらかが予めある種の答えを持っていてそれを傾聴するということにあるのではなく、まさに対話がなされ、そのなかで問題が様々な形で広がっていき、収束させるのではなくむしろ開放させたまま、どんどん対話が弾んでいくさまを見届ける、聞き届ける、ということにあると思う。『統治新論』は大竹さんと國分さんが、現在の「統治」「民主主義」「立憲主義」について縦横に対話するなかで、いろいろな問題と両者がそれに取り組む際の糸口が提示され、読者を更なる思考へと挑発するようなものだ。
本書の基本線は、次の問題にどのように立ち向かうか、ということである。その問題というのは、統治が立法から逸脱して歯止めを失っていく、という事態である。本書の言葉で言い換えれば、法を制定する力が法を運用する力を制御できなくなっていく、という事態である。このパースペクティブを保ったまま、「秘密保護法」や「解釈改憲」、「立憲主義」、「新自由主義」といったテーマについて会話が交わされる。いくつか重要なところをピックアップ。

大竹――「統治が政治的公開性の世界から離れて自立化するという事態」とは、国家の主権もしくは法律から統治の活動が切り離されていくということですが、僕の念頭にあったのは、1990年台から顕著になった新自由主義下の流れでした。つまり、統治活動が外部委託、民営化されていく状況です。[...]そのはなはだしい例としては、イラク戦争で注目を浴びたアメリカのPMC(民間軍事会社)などがあります。そして統治のあり方のこうした転換が、「国家」の利益と「国民」の利益との間に衝突をもたらすようにも思える状況がしばしば生まれてきた。[...]少なくとも近代国民国家においては、「国民」でさえあればみなが平等に国家の決定に関与できるという建前がありました。しかしいまでは、その「国民」をないがしろにするかたちで、経済合理性や技術的合理性が国家の統治原理になっていく。(pp. 11-12)

國分――マイネッケ[『近代史における国家理性の理念』]によれば、政治家はしばしば法を犠牲にしてでも国家を救うという挙に出なければならない。国家理性論とは、そうした方に対する侵犯行為を何とか規範化しようとする試みであった。そうすると国家理性論には、統治のためには法を犯してもよいが、しかしその行為も実はある種の高次の法に従っているという奇妙な論理、パラドクスが見いだせることになる。
大竹――「必要」という言葉でいっていますね。
國分――法を無視しつつも「必要」という名の高次の法にしたがっているというパラドクスがあることになりますね。ところが、マイネッケによれば、近代国家は結局このパラドクスの折り合いをつけることができなかった。[...]国家理性みたいなものを認めて、場合によっては力が法を乗り越えなければならないという理論を出してしまうと、力はどんどん肥大化し、国家権力は肥大症に陥ってしまう。とはいえ、マイネッケが最終的に出した結論というのは、政治的行為者は法と力の間で引き裂かれつつも、その矛盾を自覚的に引き受けねばならないという「お馴染み」のものだった。
大竹――ある種、マックス・ヴェーバー的なんですよ。自分の良心となすべき行為との矛盾に引き裂かれ、悩みながらもあえて行為することを雄々しく引き受けるという、はっきりいってナルシズム的な英雄倫理。
國分――「二十世紀前半のドイツではお馴染みの悲劇倫理」ですね。[...]一般に、国家に強い権限を与えると、民主的な手続きこそないがしろにされるものの、国家は迅速に問題に対応し、自らの利益のために行動できるようになるという通念があります。しかし、実はこの通念は間違っている。実際には、国家は強い権限を与えられるとむしろ国益に背くようなことをしてしまう。そういうパラドクスのことを考える必要があるのではないか。[...]だから、「肥大症」という比喩を敷衍してこんなふうにいえないでしょうか――放っておくと行政や国家は必ず肥大症に陥って身動きがとれなくなる、だからこそ、公開性の原則によってつねに行政や国家をダイエットさせなければならない、と。

大竹――一般に「解釈改憲」といわれているこの集団的自衛権の行使容認は、法と法の運用とのあいだの難しい関係にかかわっていると思います。確かに本来の改正手続きなしに憲法の実質的な内容が変えられてしまうのは、「憲法の破壊」といえるかもしれません。ただ問題なのは、理論的に見れば、憲法そのものは自分がそのような――場合によっては恣意的な――解釈によって破壊されることを防ぐことができないということです。どういうことかというと、そもそも法というものは単に制定されただけでは意味がありません。法の条文が実際にさまざまな具体的ケースに即して解釈され、執行されなければ、法が効力を持っているとはいえないわけです。ですので、たしかに法はまず制定されたあとで運用されるわけですから、法の制定という行為が何よりも重要だというのは当たり前の考えにも思えますが、しかし法の解釈と執行もそれに劣らず重要です。あるいは、法の制定以上に法の運用のほうが重要だといっていいかもしれません。なぜなら、結局のところ、ある法がどういう性格の法であるかは、書かれている条文そのものではなく、その条文がどういうふうに運用されていくかによって決まるわけですから。極端に言えば、日々の運用のなかで、法は絶えず新たに制定され続けているとさえ言うことができます。

大竹――実のところ、カール・シュミットは法の解釈や運用というものの重要性に着目しつつ、ある意味でそれをもっとも悪いやり方で現実の政治に応用しようとした人です。[...]要するに彼が目指したのは、執行権に幅広い裁量の余地を認めて、法律を柔軟に解釈・運用してもらうことで、世界恐慌による経済・社会混乱にできるだけ迅速に対処できるようにしようということでした。

大竹――立憲主義と民主主義は元々は別の原理です。ですからそこに矛盾も生まれます。権力行使が民主的な意思決定によってなされた場合でも、それは憲法によって制限されるべきなのか。もし憲法が主権者たる国民の意志をも制限するとしたら、それは民主主義とはいえないのではないか。このように民主主義と立憲主義とが齟齬をきたすことがあるわけです。
國分――大竹さんは、それを確認されたうえで、立憲主義と民主主義のどちらかをどちらかに優先させるのではダメだと主張された。そのことを、カントの有名な言葉をもじって、「民主主義なき立憲主義は空虚であり、立憲主義なき民主主義は盲目である」とも表現されていました。

大竹――シュミットの「独裁」や「例外状態」は法の運用が当の法そのものを踏み越えていってしまう事態を指していました。[...それに対して「暴力批判論」のなかで]ベンヤミンは「法維持的暴力」/「法措定的暴力」という二つの暴力を区別しつつも、この区別が廃棄されてしまうような暴力形態を考えています。その例としてあげられるのが警察です。警察は法を維持するための装置でありながら、あらゆるケースに介入することで法の適用領域を無制限に広げ、事実上、新たに自分自身で法を措定しなおしているのだと。法を運用しているはずの権力が、いつの間にか自分で法を作り出していくわけです。その限りで、警察は権力の最も退廃した形態だとベンヤミンはいっています。[...]
國分――[...]行政による迅速かつ強力な対応を迫る現実の課題が確かにあるのだけれども、そうした課題への対応のなかで行政が暴走してしまうのを防ぐには、その活動を何とか規範化しなければならない。シュミットはこの難しい課題に真正面から取り組み、行政は、法の束縛は超え出るかもしれないが主権を超え出るものではないと答えた。[...]それに対しベンヤミンは「暴力批判論」で法の適用が事実上の法の措定になってしまう自体を描き出すとともに[...]『ドイツ悲劇の根源』ではドイツ・バロック悲劇の読解を通じ、君主において統治と主権がうまく結びつかないさまを論じている。