08読書日記48冊目 「不可能性の時代」大澤真幸

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

大澤先生の社会学のエッセンス的な、総まとめ的な、スリリングな本。

要旨は自分の読書カードを三枚も使って書いたので、ここでは触れないが、疑問として残ったのは、いくつかある。

まず、「不可能性の時代」における「終わり」への感覚が喪失することによって、生じる結果についてである。著者は「終わり」の終わりは「反復」からの普遍化であり、いつまでたっても「偶有性」が解消されず、現実を「必然」として引き受けることができなくなる、と書いてあるが、これは何か問題でもあるのか。「第三者の審級」によって「終わり」が来ずとも、人にとって「終わり」は死であることには間違いがない。仮に、偶有性への戸惑いから「現実への逃避」が起こる、というのなら、理解はできる。

そして、これは「不可能性の時代」を乗り越えるために最終的に提示されるタームであるが、「無神論」についてである。ここでは彼の意義付けにおいて「無神論」とする。「第三者の審級」に対する裏切りと愛を同時に孕ませることが「無神論」であり、普遍的な連帯を得るkeyとなる、と著者は説く。彼がその根拠とするのは、愛情についての、<私>=<他者>という構図は根源的に{<他者>≠<私>}という構図によって「不可能」なものであるということであり、しかしその愛を可能にさせているのは<他者>が他者である所以の本質的な差異(余剰)であるということだ。その余剰は、「不足しているもの」との対比、すなわち否定性を通じて暗示されるしかないものではあるが、このとき、本当に愛されているのはこの余剰=<無としての他者>であるという。そこから著者は、前述のテーゼを提出するにいたるが、これは単に、定義上の「恋愛の不可能性」を、政治的に言い換えたに過ぎないのではないか。(だが、実際、読んでいて、私は彼の、この部分の論理展開についていくことができない)

彼の社会学は、決定的に「第三者の審級」を抽象的な段階を変えて用いられているだけで、どれも基本的な構図は同じだ、という批判ともつかない批判がなされるときがある。しかし、彼の本質的な問題意識は「第三者の審級」ではなしに、それを引き出す<他者>と<私>という極めて純粋な「社会性」から生じていると考えるべきであろう。結論部分で提示される、「ランダムに引かれた」接線に基づく民主主義、というのは「異質」へとの出会い、であり、<他者>との出会いに他ならず、唐突な救済に見えなくもないが、何とはなしに、彼の根本意識をオプティミスティクに提示したものなのではないか。

(それにしても、大澤先生の本にたいする書評において、彼の取り上げる対象を批判するといった、方法論的批評しか存在しない、ということも面白い特徴ではある)

289p
総計12831p