08読書日記49冊目 「丸山真男 日本近代における公と私」間宮陽介

丸山眞男―日本近代における公と私 (ちくま学芸文庫)

丸山眞男―日本近代における公と私 (ちくま学芸文庫)

ちょうどゼミで丸山真男を読んでいることもあって、そして、友人がこれを読んでいた、ということもあって。

前半は丸山批判に対する、間宮からの再批判である。吉本にあっては丸山を「空虚な概念」を持つ近代主義者とみなすが、丸山はむしろ『「概念」にたいして、内からつき上げるような、ほとんど性欲にちかい魅惑を感じる者だけが、思想と学問とを論ずる資格がある」と傍白する。ゼミの一回目にも話題に上ったが、丸山の理論的分析に対して<冷たさ><冷酷さ>というものを感じる、と言う人がいるらしい。私自身はそのように感じることは少ないが、そう感想を持つ人がいてもおかしくないほどに丸山の論理は徹底しているように思われる。しかし、そのような論理主義というのは『生々しい問題意識を「鉱物質のようにつめたい認識への内的情熱」の放出であり、むしろ問題に対する思想的解答を獲得しようと情熱的になるがゆえに、<つめたく>なってしまう部分があるということだろう。それはすなわち、極めて過激な熱情に他ならない。

それはさておき、本書には丸山思想を理解するうえでの重要な入門書となろう。事実『日本の思想』だけを読んだのだけではカバーできない、丸山の照準を一通り理解する事ができよう。特に日本における「公と私」「ウルトラ・ナショナリズム」「転向」の問題は、極めて刺激的で面白い。また、詳述は避けるが、実際に本書後半部では、丸山やアレントを引きつつ、間宮自身の「公共性」の概念が記されており、それにこそ、やはり本書の最大のクライマクスが訪れる。リバタリアニズム関連の本を併読していることもあり、<自由>の概念の差異性の議論は目から鱗であった。しかし、間宮の公共性議論として読むにはやはり性急な議論であり、特に、リバタリアン的国家=「自由の私化」の遂行による政治の極小化が、どうして『その背後から巨大な専制権力を立ちのぼらせる危険性を胚胎している』のか、また、アレントにおける活動=公共空間=政治空間の論拠を「出来事」としてまとめることには、議論が大雑把すぎるだろう。それをさしおいても、非常に興味深く、また議論を駆り立てる著作である。

ケインズハイエク』も読まんと、あかんわ、これは。

297p
総計13128p