08読書日記95冊目 「行人」夏目漱石

行人 (新潮文庫)

行人 (新潮文庫)

読書会で読んだ本。夏目漱石を読むのは『こころ』を含めて二作目。どうして日本文学史上、夏目漱石という近代文学作家の作品が、今でも人々の心をひきつけてやまないか、そして、いかにいつでも新しいか、それは彼の作品が「真面目」であるからである。

夏目漱石とは、日本の近代の萌芽時期に登場した知識人である。彼は「理性」による「自然」の克服によって生まれた「近代」という時代を、身をもって体感し、福沢諭吉のように大衆と知識人のギャップを確かに感じ取り、苦悩した人物であった。

アドルノにひきつけて言えば、『こころ』にしろ『行人』にしろ、それは「啓蒙」の恐るべき弁証法において、ニヒリズムに堕するでもなく、「理性」の全体化に陥るのでもなく、限定的否定の力を信じ苦悩する人物が描かれる。限定的否定とは、自然を制御するために意図された「理性」が自らを「真理」と詐称することに対して、理性を否定して自然に変えるのではなく、そのような理性の全体性に否、と唱えて抵抗することで、理性を信じながらも新たな弁証法的展開を目指す立場である。しかし、そのような立場にあっては、理性は理性自身を蝕む誘惑に負けてしまうかもしれない。そのような苦痛の立場を、夏目漱石の作中の人物は体現している。

本書では、自然、絶対、神、哲学、「真面目」ということが語られる。「真面目」に関しては、『こころ』で触れられていたとおりである。理性的になることは、つまり自らの感情を考察に変え言葉をつむぐ立場をつきつめる、これによってすべてを理知的に解明しようとする立場である。しかし、このような徹底的に啓蒙的なやり方では、言葉にならぬもの=語りえぬもの=他者については、分かりうることがない。他者とは、究極的には自らの経験領域に含まれぬものである。その意味では他者というアレゴリには「死」すら含まれる。あるいは、一郎が自らの身体すら自らのものではない、と言明するとき、その身体は他者である。では、このような他者と渾然一体となるような状態とはいったい何か。それは言葉に重きを置かぬ自然のあり方である。しかし、啓蒙とは自然を克服し、世界を秩序付ける理性の力ではなかったか。そのような秩序付けの理性の力を捨て、自然に堕すること、これはしかしながら一郎の望むものではない。

これら二つの道、つまり理性による全体化(盲目化)と自然への回帰の二者の間で、そのどちらにも否、と答える立場こそ「真面目」である。そこでは、自らをメタに考察することなく、しかし言葉という秩序付けの道具を用いて感情を吐露できる主人公やHさんこそが、「真面目」の代弁者だと捕らえられている。

417p
総計27959p