08読書日記94冊目 「憲法とは何か」長谷部恭男

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

たまたま何の気もなく、ルネで手にした本。ところが、むちゃくちゃ面白い。久々に目からうろこが落ちる。

筆者があくまでこだわるのは立憲主義である。近代国家は、宗教戦争の惨禍の反省から、様々に異なる価値観の生死を賭けた衝突を回避するために、私的領域と公的領域を明確に分割し、公的領域において社会構成員に共通する利益を発見しそれを討議し実現することを、憲法典を通して命令するのである。これは裏を返せば政治プロセスが、公的領域にとどまらずに私的領域、すなわち個々人の良心や価値について踏み込むことを制限することを意味している。これは「愛国心」問題とも密接に関連する議論でる。「愛国」の「国」とはすなわち憲法典をさすものであるということと、この「国」について「愛情と責任感と気概をもって」接すること、すなわち危険状態であれば「国」に対して自身を奉じるよう要請することは、矛盾する。「国」=憲法典という構図の元で、憲法典の典拠が公的領域における闘争状態の調整=自己保存秩序であるためである。ここで筆者が極めて慎重に主張することは、戦争を絶対悪としてみなすのではなく、憲法典=国家の構成原理が脅かされるときであれば(柄谷によれば主権が脅かされるときであれば)、その戦争は仕方なく正当化される、ということである。注意せねばならないのは、ここで「究極状態」として定義されているのは、憲法典(主権国家)の存続が脅かされているときであり、国家の背後にある裸の国土や人々の生活が脅かされているときではない、ということだ。

立憲主義、とはすなわち「法」による支配、であり、それは政治プロセスの私的領域への侵入を制限する、つまり各人の「人権」が権力に脅かされないための原理である。ポーコックによれば、このような私的領域を根拠とする「人権」の発想はフランス革命など大陸の発想であり、古代ギリシャにおいて、あるいはイギリスにおいては鑑みられることのなかった概念である。古代ギリシャやイギリス古典的共和主義においては、政治プロセスが求めたものは個々人の政治への主体的関与であり、共同体のために自身を費やすことを求める「作法」原理の徹底による「徳」である。ポーコックはこのような徳による市民の生活をシビックヒューマニズムとして、ルネサンス以降の「ヒューマニズム」と区別したのだった。しかし、度重なる宗教戦争(=自然状態における万人による闘争)を経たヨーロッパにおいては、そのような「徳」の概念を捨象し、「人権」(=ヒューマニズム)に基づく「法」の概念によって、近代国家が成立する。このような近代国家の原理を引き継ぐ以上、もはや「徳」の概念、すなわち共同体のために各人が生成し消滅することを求めることは、お門違いではないだろうか。「法」とは、柄谷によれば、国家による合法的収奪である。

このほかにも、ルソーの戦争状態の解決、シュミットの友敵概念、原理と準則の違い、アッカーマンの新・権力分立論、憲法政治と通常政治の分類、二元的民主制によるリベラル・デモクラシー、憲法改正の無意味さ、憲法「解釈」が専門家集団にゆだねられる事態、など、非常に興味深い論点を持っている。面白すぎる。

193p
総計27542p