時計じかけのオレンジ

週に最低一本映画を見ようと心がけている。先日はスタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』を見た。

時計じかけのオレンジ [DVD]

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変な俗語が続出したり、怪しげな飲み物やドラッグを思わせる物質、巨大なペニスの落書き、テーブルやドリンクサーバーになった女性の裸像など、イングランド・”ヤング・アングリー・メン”文化を斬新さと先鋭的な芸術性をもって描き出した秀作。キューブリックは独特のやり方で自由主義の本質に迫っていく。自由主義は、個々人の行為の選択の自由を最大限に保証しようとする思想である。本作は、自由主義が社会逸脱的な行為についても寛容足りうるのだろうか、という問いを、セックス・暴力・ドラッグという快感、人間的な徳としての善、社会的な安全という三つのタームから抉り出す。個人は「自由であれ」という規範的命令のもとで、自らの行為を選択する。その選択には反社会的行為としてのセックス・暴力・ドラッグが含まれえる。自由主義は自らを様々な文化的規範を包括する規範として、すなわち「メタ規範」として君臨する。しかし、そのような自由主義の自由の捉え方では、放埓な個人主義が溢れ出し、社会の治安は掻き乱される可能性がある。これは二十世紀後半になって、さまざまな思想家から現代的な問題として捉えられてきたことでもある。自由だけを強調すれば、「善」でさえ相対的な選択の一つになってしまうのだ。
しかし、治安を維持しようとするような政策、例えば劇中で出てくる新薬――セックスや暴力などの反社会的な行為を欲望するだけで生理的不愉快が喚起される――を用いて、反社会的な行為への選択の芽を削ぐことは、本質的な解決につながるだろうか。刑務所内の牧師がいみじくも語るように、人間の善性は選び取られるものでなくてはならない。選択の自由を真の自由だとするのならば、選択肢は悪の側にも閉じられてはならない。

と、考えることはあまりにこの映画を表層的に捉えることになろうか。どうして主人公がベートーベンの第九をこよなく愛していたのか、あるいはベートーベンを溺愛していたのか。あるいは、主人公が自殺後もどうしてあのように変わらないままであったのか。「雨に唄えば」が与えられた役割は? これらの問いは、映画を理解するために欠かせない要素ではあるが、今の僕にはしっくりきてはいない。