09読書日記66冊目『グローバリゼーションの時代』サスキア・サッセン

グローバリゼーションの時代―国家主権のゆくえ (平凡社選書)

グローバリゼーションの時代―国家主権のゆくえ (平凡社選書)

グローバリゼーションや、新自由主義という問題は、公共性と共和主義を考えるときに避けて通れない問題である(もちろん、グローバリゼーション/ナショナリズムの問題や、環境倫理も決して切り離して考えることはできない)。サスキア・サッセンはアメリカの社会学者で、グローバリゼーションに伴う資本と人口の移動の問題を主に研究対象にしてきた。彼女の研究はもはや古典的な意味合いを持って受け入れられているといえるだろう。金融恐慌以降の世界を、再び考え直すには必読の研究者である。

今回読んだのは、主著『グローバル・シティ』ではなくて、サッセンの研究がコンパクトにまとめられた"Losing Control?: Sovereignty in an Age of Globalization"である。邦題ではおそらくキャッチーさを狙ってかsovereigntyは前面に出てはいない。副題で「国家主権の行方」とついているだけである。

グローバリゼーションは、経済活動が地球規模で行われるという資本の運動から引き起こされる様々な現象を総称して呼ばれる。一方でグローバル経済が国民国家(ネイション・ステイツ)を消し去っていくという考え方があり、他方、グローバル経済であったとしても国家内で起こるものであればそれは国内の出来事でしかない、という考え方がある。サッセンの研究はこれら二つの短絡な見方を否定し、ますます不明瞭になっていくグローバルな行為者・企業と国家との関係を暴きだす。

グローバリゼーションは単に国家を否定する運動ではなく、一方でその運動を稼動させているのは国家的な機能でもある。例えば、外資企業の進出を許す経済特区を制度化するのは国家である。そのような資本の動きは移民の動きをもともなって、国内に限定された主権、特に市民権というものの役割を曖昧にしていく。しかし一方で、サッセンが「経済的市民権」と呼ぶものを強化していく。それはグローバル市場で活動する行為者(企業)が持つ権利である。経済的市民権を持つ行為者は、各国の財政・経済政策に影響を及ぼしアカウンタビリティを要求する。しかし、この経済的市民権を有する企業は、とはいえそのアカウンタビリティを自らの活動圏内である市場にしか適用しない。つまり、(金融)市場から排除されている労働者や移民、女性や差別されているマイノリティ、あるいは高齢者のためのアカウンタビリティは、そこには考慮されていないのである。

このような経済的市民権を持たない人びとらの問題は、移民問題において顕著になる。経済グローバリゼーションによって国民国家がオープンになっていく一方、移民政策は、特に日本のように、移民者個人の問題として考えられ、移民の数というものは厳しく制限されている。しかし、サッセンは「移民の地政学」という観点から、先進国が経済的に影響を及ぼしている後進国からの移民が多く存在していることを明らかにし、資本の動きと人口の動きが緊密な関係にあることを証明して見せるのだ。そのときに再び再考されねばならないのは、「経済的市民権」でも従来のナショナルな市民権でもない、普遍的な人権の概念である。その人権の概念は国籍にこだわらない諸権利を、誰しもが享受することを教えてくれるのだ。

「われわれは、政府に対する規制を行使するためにグローバル金融市場を必要とするのであろうか。それも、雇用や賃金や安全や健康といったあらゆる犠牲を払ってまで、さらに公の議論もなく。これらの市場が多くの投資家のさまざまな決定の結果であり、ある種の民主的雰囲気を持っていることは確かであるが、すべての「投票者」は資本をもたなければならず、小投資家たちは、概して、年金基金や銀行やヘッジ・ファンドのような機関投資家を通して活動しなければならない。こうして一国の市民の大部分は、いかなる決定権もないままにされている。」

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