09読書日記75冊目 『〈私たち〉の場所』ベンジャミン・バーバー

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

ベンジャミン・バーバーを有名にしたのは『ジ・ハード対マックワールド』であるが、本書は市民的共和主義によるユートピア宣言を高らかに謳っている。共和主義版『共産党宣言』みたいなのかなあ。けども、亡霊は徘徊してはいない。もっとシニカルな見方をとっている。
本書は、市場と政府の間に築かれねばならない第三の領域「市民社会」の復興を、〈労働〉後の社会に位置づけている。バーバーは市場(民間)と政府という基本的な二軸のほかに、市民社会の類型としてリバタリアンコミュニタリアンという二軸をも分析に加える。しかし、市民社会にはリバタリアンコミュニタリアン以外の類型strong democracyこそが必要であるとしている。「強靭な民主主義」と訳されるそれは、ほとんど共和主義といってもよく、アレントの名こそ一箇所しか出てこないものの、市民の公共的な活動にこそ自由があるとする点で歩を揃える。そしてマイケル・サンデルともかなり近い気がする(サンデルの”Democracy’s Discontent”からの引用が多い)。市場中心主義や大きな政府論に対して、市民社会という市民の自発的な活動の概念にこそ価値があるとする点で、strong democracyは共和主義に漸近する。しかし、注意が必要なのは、アレントや共和主義者らと違って、バーバーは市民社会を私的/公的領域とは違ったところに設定しているということである。バーバーの場合、私的領域は契約を中心とする市場と同義であり、公的領域とは政府のことにほかならない。しかし、このような伝統的な公共性論との区別は些細なものかもしれない。公共性論の立場から言えば市民社会は、市民的公共圏と同義だと言える。SDの理念とは市場と国家の対立を退け、社会的な取り決めという現実世界の調停を実現させる「市民社会」を据えることである。そこでは、政治的な議論というコミュニケーションを通じて、公共的な仕事や市民的共同活動を創出することができる。その活動は私的金銭利益にも福祉国家的なクライアントの利益にも主眼を置いていない。あくまで市民社会は「市民的精神」(civic virtue)を持った市民による自発的参加に基づく領域となる。市場経済の拡大と共に、消費社会が訪れ、かつてのコーヒーハウスやカフェなどといった市民の相互のコミュニケーション領域が衰退した。それに代わって出てきたのがショッピングモールやテーマパークであり、それはあくまで私的自由の享楽の場である。バーバーはそのようなショッピングモール化(キャッチーなフレーズだ)に警鐘を鳴らしている。市民の相互の取り決めをなす空間は消えてしまい、〈私たち〉の場所は見つからない。
バーバーが周到なのは、ある意味でそのような市民社会の限界性も見据えているところだ。それは市民に限りなく開かれた包括性を持つとはいえ、その包括性は理念上のものに留まっている、ということである。ハーバーマス風の討議倫理、想像しうるあらゆる人が参加でき、その人たちが了解を目指して行う討議は、あくまで理念的なものであり、市民社会は実質的に限定的にならざるを得ない。それが狭窄なコミュニタリアンと違うのは、「名目上あるいは可能性として民主的で開かれた形」という理念を持つところだ。もちろんこういった参加に関するジレンマも存在する。参加は定義上地域的であるが、一方権力は定義上中心的である。前者は底辺から上へと遠心的に向かい、後者は上から下へと求心的に向かう。つまり、市民社会におけるSDは地域的な限界を持ち、国家/地球規模に影響を及ぼすことは難しい。それを幾分か緩和する次善の策は、連邦制となるだろう。政府は権力を非集中化させねばならない。また、市民社会では奉仕する人は当然の事ながら、奉仕される人々も市民として扱われる。例えばリバタリアン的な考えでは、貧困者や生活保護の対象者は「お荷物」としてしか解釈されないだろうし、コミュニタリアン的な見方では、共同体がそれらの人々を抱え込んでいるという代わりにその共同体への道徳的なコミットを要求することになる。市民社会では、奉仕する人/奉仕される人の両方がそれぞれに市民的な活動の源泉を見出すのである。それは支配し/支配される関係だとも言えるだろう。ある面で奉仕・支配する人たちも、またある面では奉仕・支配される人になるのである。バーバーは触れてはいないが「依存」は腐敗であり、自分でできることは自分でするという自律がそこでは市民的徳になる。
地域的に構築された市民社会において、人は地縁的・血縁的以外のアイデンティティを、社会的責任と市民的精神という形によって獲得することになるだろう。コミュニタリアンリバタリアンの中間を、市場と国家の中間をつなぐのが市民社会である。
もちろん、バーバーの理念にも不備が歩きがする。例えば、ハーバーマスがシステム/生活世界という二分法で彼の初期の公共性論が持っていた困難を解決したということは、バーバーからは見棄てられている気がする。それはシステム(官僚制・市場)が極めて合理的で効率的に始原などを分配するということである。もちろんシステムは常に生活世界を環境とみなしてそれを植民地化しようとする。しかし、バーバーが言うように、グローバル経済を保護主義へと転換し、福祉などの行政サービスを市民社会でまかなうという構想は、あまりにシステムの合理性という利点を蔑ろにしている。それは、「市民」の概念と、その活動をどう捉えるのかに由来するだろう。ハーバーマスアレントはどちらもその活動を主に言論によるものとしているが、バーバーは活動の範囲を奉仕活動にいたるまでに広げている。市民社会での奉仕活動と、近所組みたいな制度、すなわちコミュニタリアンが夢想するコミュニティでの活動はどう違うのだろうか。出入り可能でフレキシブルなものが前者だというのであれば、それはたいして説得力を持たないのではないだろうか。

p230
総計24804p

他に読んでる方
http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20070902#20070902fn2
http://d.hatena.ne.jp/knot/20070821