なーがれーぼし・すぐにきえちゃう・きみがすきで

くるりトリビュート聞きながら、珍しく新刊を買った漫画を読んでいると、euphoricになりますです。「はい、ナカタは親子丼が大好きです」。昔は、とにかく好きな音楽を聞き漁って、千川と教えあいっこしたものだったなあ。yahooのメッセンジャーを深夜までやってたもんです。いまじゃtwitterの時代なんですか? 東浩紀がやっているというtwitterを男の私もやってみんとす、ですかね。登録だけして放置のパターンです。
http://twitter.com/katatemaru
とりあえず、僕の知り合いが登録してくれないと、僕は一向に楽しくありません。


音楽聞きながら自分の好きな漫画なり本を読むなりを読むのは、一番至福かもねー。温かいおいしいご飯を食べるときと、音楽+読書は、やっぱりどんな幸せにも勝るんちゃうかなあ。どんなに横に寝てくれる女の子がいても、どんなに優しいセックスをしてくれたとしても、かなわへんきがするけど、これ僕の間違いかしらん。オリオン座流星群は、うっかり見忘れちゃったわけですが、僕は星は好きやし、流れ星も見て興奮したこともあるけど、あれって、本当のところはどうなんだろうね。
星の光は、何億光年彼方からやってきていて、その星は"現在"もう消滅しているってことすらざらにあるっていうじゃないですか。だとしたら、僕らは死んだ星から届いた光を、美しいと思っていると言わざるをえない。それは例えるなら、廃墟を見てかつての栄華を懐かしむ、というような感じに近い。流れ星が美しいのは、一瞬にして消えてしまうからでも、願い事がかなえられるからでもなくて、それがもう今という時間を生きていない、ということだからです。
けど、それって本当に、「美しい」のかなあ。失われた過去の光が、今この地球に届いている。このことはすごく感傷的にさせることは確かです。だけど、その感傷をいつまでも美しいといっていて良いのだろうか。僕らはいつも「昔は良かった」なんてともすれば言いがちではないですか。失われてしまったから美しい、という論理には、僕は未来がないのじゃないかと感じています。
僕らが「今」を感じようとするやいなや、その「今」という時間は過去になって流れさって行きます。「過去の真のイメージはさっと掠めすぎてゆく。過去は、それが認識可能となる刹那に一瞬ひらめきもう二度と立ち現れはしない」。失われてしまった「今」が放つ光は、それは「過去」になって久しいものです。そのような過去を「過去」だからこそあがめたてるのではなく、流れ星の光を「今」のものとして、そこにこそあらゆる「今」が刻まれているのだとして感得しなければ・・・。流れ星の美しさは、今失われてしまった星を「過去」から、「廃墟」から見ることにあるのではないでしょう。その美しさは「現在時Jetztzeitが充満した過去」として、「いまここに唯一無二のもの」として、光が地球へと辿りついたところにあります。
流れ星は「今、もうない星」の光を伝えているから美しいのではなく、その星が過去から今にいたるまで連なっている時間を持つからこそ美しいのです。僕らが本当にその美しさを、現在時をはらんだなかに認識しうるとき、そのとき僕らは「抑圧された過去を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンス」をつかむでしょう。
ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」)