'10読書日記2冊目 『社会思想史を学ぶ』山脇直司

社会思想史を学ぶ (ちくま新書)

社会思想史を学ぶ (ちくま新書)

社会思想史を通覧的に読み直そうとする試み。教科書的な本なので、関心のある分野を広げていく取っ掛かりになると思う。しかし、啓蒙期の社会契約論を中心にウェーバーマルクスへと展開していくことが多かったこれまでの「社会思想史」とは違って、宗教や悪、自然概念など「社会思想史」が軽んじてきたものを再読させようとする意図がある。人間性と社会という議論は、現代においてあまりなされなくなったように思える。というのもその「人間性」が科学的であれなんであれ恣意的なもの、主観的なものに留まりがちだ、とリベラリズムが判断してきたからであろう。言語論的転回を経た後の哲学は、人間性を一顧だにしない。しかし、一方で「人間とは?」という問いこそが文化や歴史の中心となる事柄であり、その探求を通じてしか、多文化社会への道は開けてこないのかもしれない。本書で面白かったのは、特に、歴史・文化という異質なもの、他者的なものを理解し、分かち合うために、筆者が解釈学を再考しているところである。ガダマーやリクールなどは、名前しか知らず、本書を読んでも詳しいことは分からないが、これを期に何か読んでみれば良いかもしれない。

一方、不満に思ったところも二点ある。まず、筆者が(フランス)現代思想を一面的に否定的に捉えているかに見えるのは、残念だと思う。確かに80年代90年代のポスト・モダニズムの議論は、知を軽薄化してしまったのかもしれないが、その軽薄化は戦略だったのではなかったか。フーコーデリダドゥルーズに過剰に期待をかけることもよくないだろうが、一面的に切り捨てるのではなく、彼らも古典として読み直すところがあるのではないか。特に、ハーバーマスアレントを視野に入れるのであれば、フーコーデリダの議論をそこに併せて対決させていくことが面白いだろう。
二点目は、社会思想史を学ぶ人を、筆者がどこに想定しているのかが明確ではない点である。それは学者の卵であるのか、インテリであるのか、はたまた、一井の市民か、それとも「衆愚」、「大衆」なのだろうか。問題は、公共的な思考を大衆・衆愚がもてないところにある。あるいは、大衆がそもそも公共的な思考を獲得する必要があるのか、と言う点である。グローカルの訴えを哲学的に洗練していくためには、それが啓蒙的であるべきなのだろうか。一般市民はローカルのことは考えられても、グローバルな部分については偏狭にならざるを得ないのではないだろうか。その偏狭さを乗り越えるためには、どうすればいいのか。社会思想史を読み直せば良いのか。その当たりがよくわからない。

220p
総計510p