'10読書日記5冊目 『ホモ・サケル』ジョルジョ・アガンベン

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

283p
総計1284p
初めて読むアガンベン。シュミットの例外状態をモティーフにしながら、フーコー晩期の「生政治」論と、アレント全体主義論を相互補完的につなぎ合わせて議論し、西洋政治思想史の初めから中心概念に包含されつつ排除されてきた「ホモ・サケル」に眼を向ける、かなり力作。そもそも読もうと思ったのは、稲葉振一郎『「公共性」論』にアレントとともに大幅な言及があったからだが、そのようなことはおかまいなしに面白く読めた。
第一部「主権の論理」では、カール・シュミットの主権論に依拠して議論が展開される。法規範というのは、例外をその内部から放逐しながら、同時に必ず例外を参照しなければ体系化できないものである。この包含と排除の複雑な絡み合いを、集合論言語哲学存在論など諸分野においてポスト・モダンの先駆者たちがなしてきた業績と同時進行で論じていくパートは、極めて抽象的であり難解なのだが、圧倒される。「もしあなたが〜〜したら、しかるべき罰が与えられる」という最も原初的な法の構造は、常に「もし〜〜」という特殊な事例を参照しなければ、法によって規格化される規範は成立しないということを表している。法は常に当初から例外状況を包摂しつつ、規範内部からはそれを締め出すことで、安定した秩序をもたらしてきた。そして「主権とは、法権利が生を参照し、法権利自体を宙吊りにすることによって生を法権利に包含する場としての、原初的な構造」をなすのである。主権とは、簡明にいえば、法規範と自然状態の境界に横たわる例外状態において、その境界の在りようを決定するものなのだ。
第二部「ホモ・サケル」、第三部「近代的なものの政治的範例としての収容所」では、第一部の理論的な抽象性が引き下げられて、西洋古代から連綿と引き継がれてきた(そして隠されてきた)「聖なるもの」、「homo sacar」の両義性(犠牲化不可能でありながら、殺害可能である生)が系譜学的に証明されていく。ホモ・サケルは神聖なる儀式にも、同時に共同体の法規範にも属すことはできないが、同時に二重に排除されているせいで例外状態に滞留し常に殺害可能性という形で、共同体に包摂されている存在である。第一部で展開された主権の理論的カウンターパートがホモ・サケルであることは明らかだ。ホモ・サケル/主権はビオスとゾーエーを隔てている境界を曖昧にし、その曖昧になった圏内において、主権がホモ・サケル=むき出しになった生=むき出しのゾーエーを捉えるのである。この意味で、市民権、自由意志、社会契約などとともに論じられてきた主権は、再定義されなければならない。つまり、「剥き出しの生だけが真に政治的」なのである。主権は、主権的決定という形で例外/規範の線引きを絶え間なく行って市民社会を成立させているのであり、決して一回きりの社会契約によって市民社会が成り立ったのではない。また他方、主権的決定は、市民の生そのものを絶えず参照する(これはのちに人権宣言へと実を結び、近代の生政治として開花する)のであるが、その対象となる生は、ビオスから明確に区分されるゾーエーではなしに、自然と人間の間をふらふらと彷徨っている生であり、それは主権を持つゾーエー、身体的生に囚われたビオスなのである。今日、われわれは潜在的ホモ・サケルなのだ。それは一方で悲惨なまでに目立ったあり方で難民として表徴されるが、他方では、脳死や中絶、臓器移植、安楽死など生と死にまつわる領域に直面すれば、まざまざと立ち現れる現象だろう。あるいは9.11の後に、世界中を「例外状態」が席巻し、潜在的ホモ・サケルであるわれわれ市民からは隔絶されたところで、主権的決定がなされ、そして同時にホモ・サケルは徹底的に管理されることにもなっている。法権利は事実と混濁し、主権=剥き出しの生のみが対象となる法なのである。
大きな収容所の中に生きる、われわれ現代人は、いかにその生政治から逃れうるのか。あるいはそこからいかにして政治哲学が可能か、確実に本書はその思考の起爆剤となるであろう。

ちくま文庫あたりで廉価で出ないかなー。