外国人参政権とトラウマ

10年ほど前、カナダのトロントにホーム・ステイしていたときのこと、夏休みの自由研究もかねて、カナダ人に、次のような簡単なアンケート調査をしたことを思い出す。
1.(世界地図を見せて)あなたは日本の場所が分かりますか。
2.あなたは日本人と韓国人、中国人の区別がつきますか。

詳しい数値は忘れたが、1については少なからぬ人が日本とフィリピンを混同し、また2についてはかなりの人がNOと答えた。当時中学生だった僕は、このことに鋭い衝撃を受けたことを覚えている。今になってみれば、カナダ人にとって日本などという極東の国について、正確な認識などを期待することのほうが愚かしいということも分かるが、日本だけが人生の中心範型であった僕にとって、調査結果は十分驚くべきものであったのだ。わずか14歳にして、僕はそれまで僕の全てでありそのものであった日本という国の絶対性を、相対化されてしまったのである。

このことから、日本人は、あたかも自分たちが世界の中心に位置していて、世界中の人々から尊敬のまなざしを向けられていると過信しているのだとか、そういうことを言いたいのではない。カナダという西欧にとって、まだまだ日本が立ち遅れた国であり、日本はさらなる国際的な発展を遂げるべきだなどと御託を述べたいのでもない。僕はただ、自らの視野の偏狭さが、いかに自らにとって認識されにくいものであるかということを、不幸にして、わずか14そこそこの歳で知りえてしまった、と言いたいだけである。何かを絶対的なものとして崇めたてまつり没頭することの無力さを、14歳の若さで知りえた者が、極北の相対主義者にならずに生きてこれたことだけでも、幸運の賜物ではないだろうか。

注意しておくが、僕は昔は視野が偏狭であったが今はそうではない、ということを、自慢げに述べたいわけでは当然ない。真に言いたいのは、自らのパースペクティブに生涯つきまとうであろう偏狭さに気付くことの難しさについてである。このことは、自らの視野が狭い/広いという問題系には属してはいない。絶対的な視野の広大さ、全てを見渡せるような視点などというものは、死にたえて久しい神にしか与えられてはいない。おおよそ見果てぬ自分探しの旅を繰りひろげた後に、「私の視野が広がった、世界の広さを知った」などと恥知らずにのたまう人たちには関心がない。いかに「世界の広さ」を知ったところで、世界はさらなる無限の広大さを見せるだろう。問題は、世界全体を知るという視野を持つことではない。それよりも重要なことは、たとえ自らの視野がいかに広いものだと誤信していたとしても、どのみちそのような視野は、まったく偏狭なものでしかない、という確信を持つことなのである。自らの視野の範型を自明視しないこと、その視界はまさに周縁から望まれたものであるということ、これらのことだけが僕の言いたいことである。事実、カナダの書店に行って、世界地図を広げてみるまでもなく、そこにはおそらくカナダを中心にした地図が描かれているのであり、そこではまさに日本は東の果てに位置していることは明らかだ。かの国にとって、日本はまさに(地図の)周縁にあるのである。

ところで、僕が10年前のアドレセントな青臭い思い出に耽ってしまったのは、外国人参政権の問題についてのニュースを見たからである。インターネット界隈では、お決まりのように、外国人に参政権を与えただけで、日本が滅亡してしまうだろうと恐れおののいている人たちがはしゃぎ回っている。それくらいで滅びる日本なのであれば滅びてしまっても構わないのではないかなどと思わないでもないが、ともかく、「代表なくして課税なし」と銘打って近代の先駆けとなったアメリカ独立革命を想起するまでもなく、グローバリゼーションの進展に伴って、資本の脱-国境の運動に見合った形で、参政権が拡大されることは当然であろう。第一、在日外国人の問題を考えれば、このことは、日本がそれこそ近代国家の周縁に位置していたところから、ようやく近代国家の中心へと這い上がる契機を提供することは間違いがない。遅きに失してきたこの国では、まだまだ〈市民〉と〈国民〉の区別の伝統も根付いてはいないが、それでも市民権なるものがそもそも脱国家的なものでありうるということは念頭におかれねばならない。

しかし、インターネット上でお祭り騒ぎにいそしんでいる滅亡論者、「憂国の徒」である尊敬すべき人々を見て、10年前にカナダで行ったアンケート調査には、ナショナリズムの全てが詰まっているとの思いを強めるほかはない。カナダ人にとってみれば、中国人・韓国人・日本人の区別がつくはずがないにもかかわらず、そのような差異を否定され一緒くたにされることこそが、日本という周縁にしがみつく人々にとっては、耐え難いことなのである。オリエンタリズム的な視点によって、中心/周縁、近代/未開という区別がつくられて以来、「周縁」国のアイデンティティは破壊されてきた。このことはどれほど批判されても足りるということはない事実だろう。そして、かつては日本も韓国併合同化政策によって、帝国列強と同じことを繰り返したということも、同様に否定することができない歴史的事実なのだ。

ところで、一般的に言って、ネット上の多くの「亡国の徒」たちにとっては、韓国併合は、韓国の文化的進歩をもたらした日本の寛大な贈り物なのであり、正の遺産だと傲慢にも認識されている。しかしながら、左翼的な言説とともに、この歴史的事実を取り上げて、今回の外国人参政権によって日本が滅亡すると大騒ぎする人々に、過去を正しく想起せよなどと忠告をする必要はさらさらないのである。彼らネット保守主義者らは、韓国併合というおぞましい歴史的事実さえ日本中心主義的に都合の良いよう歪曲化して語るのであるが、一方、外国人参政権が日本を消滅させると危惧する彼らを無意識のうちに支配しているのは、まさに過去に半島において日本が行ったことの正当な歴史的認識なのである。彼らは過去の半島での日本の罪責を無意識のうちに参照し、その罪に自らが絡めとられていることを卑しくも証明しているのだ。もちろん、彼らの超自我はあくまでそのトラウマを抑圧し続けるため、外国人参政権について極大的な拒否反応を示す。そのようなトラウマ患者に対しては、外国人参政権が意味することを、隠喩としてではなく、具体的に示してやりさえすればいいのだ。