'10読書日記6冊目 『シティズンシップの政治学』岡野八代

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 (フェミニズム的転回叢書)

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 (フェミニズム的転回叢書)

302p
総計1584p
シティズンシップをめぐる政治思想史上の議論を幅広く捉えた好著。著者は、現在は同志社大学アメリカ研究科に所属しておられるようだ。まだ若いのに教授職を得られていると言うことからも分かるが、非常に優秀な研究者なのだろうと、ごく漠然とした印象を本書から受けた。
日本において、シティズンシップは市民権とも市民性とも多様に訳されてきたが、それは畢竟、日本にリパブリカニズムの意味での市民:citizenの概念が希薄だからであろう。日本においては市民は国民、公民、同一民族の成員といった言葉と同一視されてきたが、西欧思想史はそれらを区別する試みを通じて成立してきたといっても過言ではなかろう。かつてギリシアのポリスやローマの共和政において政治に能動的に参加する自律した人間こそが、市民citizenと呼ばれてきたのであり、フィヒテを経て国民国家の時代にようやく登場した同一民族による国民nationとは異なる。また、さらに国民国家崩壊以後は、何をもってcitizenなのか、何をもってnationなのか、その境界が曖昧になる。畢竟、国民が市民であるように語られ、排除の構造が当然視される。
本書は、そのようなシティズンシップが必然的に語義的にも政治的にも孕まざるをえない曖昧さとそれに伴う排除の構造を疑ってかかり、現代政治思想において有力である様々なシティズンシップ論(例えば、リベラリズムリパブリカンニズム、コミュニタリアニズム、そしてフェミニズム)に解答を求めて展開していく。その際に、常に問われ続けることは、シティズンシップは、どこの、誰に、いかように持たれうるのか、ということである。
例えば、T.H.マーシャルの『シティズンシップと社会的階級』では、社会が市民的権利、政治的権利、社会的権利の拡大を伴いながら福祉国家に至ることが示されたが、そこでシティズンシップに含意されたのは、個人の独立性(Gemeinchaftの紐帯からの解放)と帰属意識という相反する両犠牲であった。つまり、近代福祉国家においては、人々はそれぞれに自由で独立したアトムであるが、社会的権利を福祉国家から受け取るレシピエントとしてそこへの帰属意識が要求されていたのだ。明らかに、この帰属意識=忠誠心……≒愛国心は、それを持つ/持たざる人の区別をつけ、排除の構造を生産する。このマーシャルの福祉国家容認論が含まざるを得なかった排除の構造を、本書ではまず、ロールズとアッカーマンという二人のリベラル・シティズンシップ観から反駁していき、ついでそれへの批判をリバブリカン・シティズンシップから、そして最後にフェミニズム・シティズンシップを持ち出すことで、最終的な筆者のシティズンシップ・ヴィジョンが提示される。
特に面白いと思ったところは以下。

  • Q.スキナーの議論は、civic virtueによるのではなく、人が政治参加できる権利を持っていなければ、そして実際に参加していなければ、それは不自由なのと変わりない、というものである。特にホッブズの王権神授説擁護へのハリントンの批判を参照。これは、ホモ・サケルは主権の決定によって全くむきだしの生を余儀なくされている、というアガンベンの議論と接続できるだろうか。
  • 本書ではリベラリズムのパラドクスとして、リパブリカンの批判を提示してもいる。それは、リベラリズムが国家の人々への強制を廃することが自由を保証することになると説く一方で、実際には、国家/市場は肥大化し、国民は無力になってしまい、政治への無関心・嫌悪などが醸成され、ただ自らを権利の名宛人/労働者=消費者としかみなせなくなる、というものである。
  • リベラリズムが差異を蔑ろにするということについても、面白い議論があった。それはマイケル・サンデルによって出されたプライヴァシーの権利と同性愛の権利の誤認への異議である。リベラリズムは当然、同性愛の権利をも承認するが、そのときに依拠するのは一体どのような前提なのだろうか。サンデルは、リベラリズムにおいては、同性愛が異性愛と等しい価値があるから正当化されうるのではなく、それが自由になされた選択の帰結であること、他者に危害を与えるのでもないこと、特にプライヴァシーの権利の適用対象であることから導かれる、と述べる。つまり、そこで含意されているのは、同性愛に固有の価値を認めているのではなく、「卑劣なものであるかもしれないが、私的自由な権利であるから」という風に、むしろ同性愛を劣ったものとしてみなしている、ということなのである。
  • 特にリパブリカニズムにおいて強調されるcivic virtueや自律、政治参加の責務は、経済的に誰にも依存していないことを最終的に選別することに加担し、経済的な依存者を排除してしまうこと、また、介護や家庭内労働などのケアの価値を貶め、ケアなどの諸ニーズを政治的言説から排除してしまうことなどが、フェミニズム・シティズンシップの観点から暴かれている。

ドゥルシラ・コーネルやナンシー・フレイザーフェミニズムの理論に依拠しながら提示されるそれは、私的個人の自由と市民の徳・責務、排除と包摂、そして何より私的領域と公的領域という区分を大胆に脱構築していかざるを得ないことを提案する。フェミニズムが最も得意とする分野は以前より私的領域として語られてきた家庭内の事柄だろう。古代より政治思想史上、まともに家庭のあり方や教育について、政治と絡めて考察されたことは余りない。その点でも、本書は啓発的であるし、なにより、〈女性〉という象徴的な立場を通じて、フェミニズムは単に女性学であることをやめ、排除と差異に敏感になり続けてきた、と言うことをまざまざと思い知らされた思いがした。特に、デリダに依拠しながら議論を続けるコーネルについての興味を引かれた。
ところで、先の外国人参政権問題において、僕はこの前、共和主義的な立場から、すなわち人が社会において法の支配に従うべき「正統性」は、畢竟、その同じ人が法を立法できるできることに由来する、ということから、外国人参政権の問題について賛成の立場をとった。本書で学んだ知見を生かせば、リパブリカニズムとは別の観点から、すなわち、リベラリズムの観点から、同じ結論を導き出すことができよう。
リベラリズムは現実の生から自由の価値を見出すのではなく、理念を想像することで規範を紡ぎだす。リベラリズムは、自律した人格を想定し、それぞれの抱く善は多様であるがゆえに、全ての人間は自由に行為できねばならないという規範を強める。そして、それぞれの価値の多元性と共約不可能性という地平から、では、いかにして「正義」が作り出せるか、公共財が配分できるか、と問うのである。
また、これは非常に忘れられがちな論点であるため、確認しておかねばならないが、国際的に認められた出国権と入国権では、明らかな非対称性が存在する。それは、どちらも普遍的な人権として捉えられているにもかかわらず、前者は許容されやすいが、後者は非常に認められにくい(特に日本の場合、それは著しい)。しかし、われわれ移民受入国が、自らの国民一人一人に私的な自由を認め、それを各人の人格の自律性と、国家が各人の私的価値観に対して中立であるべきだとすることから、導き出そうとするのならば、この出国/入国権の非対称性は破棄されるべきものとなる。受け入れ先の国民が、移民を拒否するのであれば、そして彼らの参政権を拒否するのであれば、同じ刃は自らのほうに跳ね返り、直ちにそれが反-正義であることを訴えるであろう。すなわち、「わたしが、あなたを排除する自分の権利を正当化するときには、必ず、理想的なリベラルな国家におけるメンバーシップに対する自分自身の要求をも破壊することになる」のだ(B.アッカーマン"Social Justice in the Liberal State", 1980)。