'10読書日記25冊目 『公共性への冒険』石田雅樹

公共性への冒険―ハンナ・アーレントと“祝祭”の政治学

公共性への冒険―ハンナ・アーレントと“祝祭”の政治学

303p
総計6180p
僕が全体主義と公共性の問題について興味があると言うことを話したら、とある先生にこの本を薦められた。
博士論文が元になっているということだが、非常に良い本だと思った。本書は、アレントの思想を「アレントと共に/抗して」読むという、半分ジャーゴンになった方法を用いずに、その原典に忠実に読みすすめていく。こうすることで、アレントの新しく魅惑的な、そして危うい側面まできちんと摘出することに成功している。アナクロニズムと批判される回顧主義者アレントでも、ポストモダンアレントでもなく、現代社会における公共性の可能性と限界を見つめた、シニカルかつ熱情的なアレント像が浮かび上がる。
特に、アレントの出発点である「全体主義」論への眼差しが行き届いているところが本書の特長であろう。公共性を論じるときにアレントを援用する論者は数多くいるが、それらのほとんどは『全体主義の起原』と『人間の条件』の間の溝を埋めることに成功していないどころか、『起原』のほうにはまったく触れずにいることさえあるのだ。
アレントを読んできた者を戸惑わせるのは、彼女が繰りひろげる活動-公共性論が、政治の美化を、すなわち『起原』で批判されていた全体主義の可能性をも孕んでいるのではないか、ということである。この問いを駆動力にして、本書は展開されており、問いに対する答えを一定の仕方で提示していると言えるだろう。
その答えの中心に位置するのが、彼女の公共性論を《祝祭》の政治学だととらえる筆者独自の見方である。今までの公共性論では、アレントの議論を「良き」市民運動(例えば平和運動NPONGO)の理論のためだけに用いてきた。しかし、アレントを忠実に読むことから以下の驚くべき事実が浮かび上がる。

この「現れの空間」としての「公的領域」の重要な指標が、その空間に直接参与することによる他者との経験の共有にあるならば、ここにファシズムが催した様々な政治集会や政治運動を含めないわけにはいかない。(p103)

実のところ、公的領域に現れた人々によって行われる、言論活動の内容の良し悪しを評価する指標は、アレントには存在しない。これは、これまでの日本における「市民社会」論には強烈な一撃に違いない。平和運動ナショナリズム運動(例えば「つくる」会?)も、公的活動に一括りにされてしまうのである。もちろん、アレント自身はナショナリズムには批判的であったし、現実的な学生運動などにさえ懐疑的であった。だが、筆者によれば、こうした「悪い」大衆運動をも公共活動の中に包含してしまうところにこそ、アレント思想の魅惑があるのだ。筆者はそれを《祝祭》というタームによって把握しようとする。
アレントが活動する人間を演劇にたとえているところから、筆者によって剔抉された《祝祭》には二つの性質がある。一つには、ルソーが展開したような<見る―見られる>、<演技者=見物人>として参加者を巻き込んでいく空間である*1。もう一つには、ハイデガー経由で捉えられる《祝祭》性で、それは換言すれば非日常性となる。非日常的、尋常ならざるものthe extraordinaryの空間に関わる経験こそ、参加者の既成のアイデンティティを掘り崩し、異質なパースペクティブを統合する機動力となるものであろう*2
こうした観点、アレントの公共性を《祝祭》として整理しなおす観点は、有意義であるように思われる。とりわけ、ハーバーマスが『公共性の構造転換』で無視した全体主義的公共性を議論する視座を提供するかもしれない、という点で、それはそうであろう。公共性が誰にも開かれているがゆえに、全体主義ナショナリズムという「危うさ」にも支配されてしまいかねないという禍々しさを適切に評価することもできよう。本書は、アレントを中心に論じているのに、それだけに留まらぬ様々な社会・政治理論的思考を喚起させられるような魅力を持った思想書だと思う。少なくとも、他のアレント本よりは相当面白い!
ただ、その上で、疑問点もいくつかある。第一に、果たして、アレントが『人間の条件』や『革命について』で論じたような公共性は、「全体主義」をも内包するようなものだったのだろうか、ということである。筆者は、ルソーを参照しつつ、アレントから<見る者/見られる者>、<演技者/観察者>という相互的な経験*3を剔抉し、その《祝祭》性を明らかにし、さらにハイデガー経由の非日常性を接続させ、そこに全体主義的公共性の可能性を論じている。しかし、全体主義的公共性というものは、そこに加わった人々に、見る者/見られる者、演技者/観察者という相互の経験を与えるものなのだろうか。確かに、人々は熱狂の渦の中で世界についてのリアリティを確信し、ヒトラー総統を、あるいはスターリンをまなざすであろう。しかし、彼らは誰に「見られて」いるのか、誰に向けて「演技」するのだろうか。オデオン広場で「演技」し「見られて」いるのは、ただ総統ひとりだけではなかっただろうか。
 第二に、アレントもはっきりとは述べることが少ないのではあるが、世界についてのリアリティとはどういった概念なのだろうか。また、リアリティとはそれほど大事なものなのだろうか。全体主義的公共空間に、つまりオデオン広場に集合した、熱狂した人々が感じたリアリティは、ユダヤ人という〈他者〉を排除した欺瞞じみたものであった。この熱狂がリアリティだというのであれば、それはおそらく誤りであろう。だが一体、リアリティとはなんなのか。私には、むしろ「本当の」リアリティ(というものがあるとして、それ)は、<見る―見られる>という循環的な経験を通して得られるように思われる(が、それをアレントが言っているかは分からない)。
 第三に、仮にアレントの公共性論が全体主義ナショナリズムに結びつく危うさを持っていると表面的に解釈されることがあったとして、「その空間を規定する「物語」の一義的な支配から逸脱することで、同一性の神話を内側から解体させる(p119)」ことが、いかにして可能なのだろうか。確かに、アレントは活動の不確実性・予測不可能性に言及し、その活動が「新しい物語」を生み出すことをも示唆している。だが、全体主義的な、ナショナリズムのような運動において、そこで支配的な物語が覆されることが容易にできるとは思えない。
このようなことを考えながら読んだのであるが、とすれば、やはり『全体主義の起原』と『人間の条件』の整合性がよく分からなくなってくるのである。全体主義の「起原」の一つとして大衆消費社会を分析していたアレントが、どうしてそれが明らかに不可能であるかのような、そして全体主義の政治と簡単に結び付けられてしまいそうな、古代ギリシアのポリスを模範とする公共性を、『人間の条件』の中で論じなければならなかったのか。それが分からないのだ。もちろん、一つの方向として、ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』があるだろう。それがヒントにはなるだろうがしかし、あまりはっきりとしたことは見えてこないのでもある。
ともあれ、非常に刺激的なアレント思想書であったことだけは、何度も繰り返しておきたい。

*1:ルソーの共和主義とアレントのちがいについても丁寧に触れられている

*2:もちろんハイデガーの祝祭性とアレントのそれは根源で異なっている。ハイデガーが祝祭を哲学的な次元で、つまり頽落した公共から脱して存在者の存在を覚知させるような次元で捉えていたのに対し、アレントはあくまで他者とその非日常性を共有すること、「ともに行動する」可能性の構築という、政治的な次元で捉えていた

*3:筆者は、アレントのポリス=イソノミア論を、彼女の文面そのままに「無支配」の政治体だと理解しているが、例えばポーコックのシヴィックヒューマニズムの議論と、アレントの「支配も被支配もない」という状況をよく検討してみると、ポーコックとアレントの言っていることは大差がないように思われる。ポーコックはシヴィックヒューマニズムを「支配し・支配される関係」の内に見いだしているが、これはアレントの「見る・見られる」関係とよく似ている。