'10読書日記40冊目 『現代社会の存立構造』真木悠介

現代社会の存立構造

現代社会の存立構造

190p
総計11701p


大澤先生のセミナーに行くので、予習のために。マルクス主義的な社会理論の一つの集大成的なものではないかと思える。もちろん疎外論や管理社会論、マルクス主義的な権力観みたいなものは、フーコー以後の今では少々色あせて見えることも確かだが、それでも優れた理論構築には変わりがないと思う。何より、議論に無駄がない。理路整然とマルクスの議論を再構築して、たった190ページの本にまとめるのはさすがだと思う。僕としては最近離れていたマルクスの理論の復習にもなった。

凡そ、実存主義マルクス主義は廃れつつあるが、それでも、やはり物象化された法則性と、その法則性を内化することのできない個人の実存の悲劇という、引き裂かれた認識は、なお僕は共感するところがある。この本と同時に、フーコーの統治性の本もちらちら読んでいたのだが、インパクトとしては後者のほうに分があるようではある。しかし、ガバナビリティの話はやはりマクロなものであって、本書が提示するような相互に相克しあう主体が、ある物象性を生み出していく、というミクロ/マクロのダイナミズムの構造にはなお検討の余地があると思う。

とはいえ、労働者が資本家に抑圧されているだとか、そもそも労働者/資本家という区分が今を持ってなお有効なのかとか、そういうことも思わずにはいられない。疎外論はそもそも今では分が悪いのだ。しかし、フーコーの統治性と、本書の理論において、図らずも一致する点があるとしたら、それは「自由」という観点においてかもしれない。統治性の話においては、その対象は人口であり、その人口を構成するのは能力を持った主体、すなわち「自由」に決断できる主体である。しかし、この議論の優れているところは、主体はあるがままに自由なのではなく、むしろ統治性の作用を通して自由が析出されているかに見えるところにあるのだ。つまり、人は何でも自分の好きなように行動しているように見えるが、それはあらかじめ統治の技術というプラットフォームが存在しているがゆえのことに過ぎない。このプラットフォームを、〈物象化〉された生産過程や、資本主義的社会課程という風に「色づけ」してみればいい。実際に、資本主義の物象化は、主体が能動的に動くということがなければ作動はしない。だが、その能動性=自由はあらかじめ決定済みのものなのである。つまり、

まず生産過程において、労働者の資本の胎内への内化ということが、労働者の主体的活動性を消去するものでは決してなくて、まさしくこの主体的活動性そのものの内化として存立すること、そこにおける労働者の客体化が、まさにみずからの主体性そのものを媒介とする客体化として貫徹すること[…]労働力商品を売るというひとつの実践は、自由な意思においてなされる。[…]けれどもそれは、それ以外に生活の方途を持たないからである。休職する労働者たちが自らの自由な意思でその労働力を売るとき、この自由な意思そのものが、その存在によって内容を規定されている。たしかにこの実践もまたひとつの〈のりこえ〉である。飢えあるいは予想される飢えというひとつの現実ののりこえである。しかしそののりこえの仕方はあらかじめ決定されている。すなわち彼が資本のもとで、活動する資本の胎内でその要素として労働する以外にはないというふうに決定されている。それはあらかじめのりこえられているのりこえである。

あるいは、こう言ってもいいかもしれない。すなわち、すべての自由は脅迫にほかならない、と。誰かが耳もとでささやきかける。「あなたは労働しても/しなくても自由です、しかし労働しなければ飢えてしまいますよ」。そこでは自由は、あらかじめ(先行的に)決定された選択肢においてしか選びようがないのだ。それは、ロール・プレイング・ゲームでの自由だ。そこにはすでに・前もって・与えられた選択肢しかない。そのうえで自由が規定されているのだ。