'10読書日記42冊目 『安全・領土・人口』ミシェル・フーコー

514p
総計12510p

初めて読む講義集成。基本的に講義なので文学的修辞もほとんど使われており、文面だけ読めば理解可能。だけれども、例によって錯綜した議論を展開しているため、全体的に俯瞰することは不可能。
最近は、統治性-生権力をめぐる議論がかまびすしいが、僕としてはあんまりそこに乗っていけない感じがしている。『性の歴史1 知への意志』の、あのみなぎるようなテンションが講義には反映されてはいないということもあるだろうが、もちろんそれ以外にも、『知への意志』あるいは一つ前の『監視と処罰』との接合がいまいち難しい。生権力=統治性なのか、と言われればそれも違う気がする。フーコーは、それまで権力を、それを誰かが保持できるようなものだと考える見方に終始反対してきた。知/権力と呼ばれるエピステミックな権力論を、古きよき左翼的権力観に対置させたわけだ。知/権力的な権力には、そこからの解放=自由も、あるいは真理も存在しない、と一応は言える。しかし、かといって、ではフーコーが一連の著作でそういった知/権力を全面的に礼賛したかといえば、もちろんそうではない。むしろ、そのように張り巡らされた権力連関に対して、どのように解放-抵抗が可能か、あるいは可能ではないにせよその権力へはネガティブな眼差しを向けていたはずだ。
しかし、統治性の議論に関しては、フーコーのそのような権力への否定的な眼差し、というか新しい解放への模索、というものは消えてしまっている気がする。権力は確かに、かつてのように「悪しき権力」であることをやめ、人口に配慮する/しなければならない統治性に従うものになったかもしれない。が、かといって、権力=良きものになったわけではない、というのが、フーコーのそれまでのニュアンスだったのではないか。統治性の議論を参照する、フーコー以外のさまざまな論者は、そういうところをちゃんと汲んで議論しているのだろうか。よくわからない。

それはさておき、フーコーマキアヴェッリ理解も、他の思想家のマキアヴェッリ理解と比較してみたり、フーコーの時間論とポーコックのそれとを比べてみたりしても、面白そうだ。