'10読書日記43冊目 『政治的なものの概念』カール・シュミット

政治的なものの概念

政治的なものの概念

128p
総計12638p

とある方から読書会に誘われて。よまなよまなと思いながら一年くらい本棚にしまわれていたという。そしてこれを使ってドイツ語の勉強をすればいいというアドバイスも頂きながらずっとスルーしてきたという。すいませんすいません。

シュミットは、国家をその最高の主権者としてみなし、それこそが政治的なものの概念Der Begriff des Politischenの形態なのだと言う。自由主義は経済・道徳を政治-国家が扱う中心のものとすることで、本来その中心に位置すべき「政治的なるもの」を不当に扱ってきた。「政治的なるもの」とは、つまるところ誰を敵とみなし、その敵に対してどのように対処していくのかについて決定を下すことを指している。経済・道徳は、そういった存在論的に闘争的であるはずのものを、競合/論争、というふうに脱-政治化することで、国家から政治性を剥奪する。しかし、脱-政治化された国家においても、やはり究極の状態(例外状態)としての戦時においては、決定を下さねばならず、いかに自由主義/民主主義が国家から主権を奪い、人民主権を歌ったところで、国家の政治性=友・敵の決定は先延ばしに/不可視にされるだけだ。
こういった自由主義批判、すなわち自由主義が脱-政治化/非政治的なるものとして扱う諸領域(社会的なるもの)も、極めて政治的になりうるというタイプの批判は、ある意味ではマルクス主義流のイデオロギー批判ともとれるし、多文化主義の常套句ともなったものだが、後者はやはりシュミットの影響が極めて大きいのだろう。

とくに、友・敵理論の存在論的把握は興味深い。敵との闘争は、シュミットにおいて現実的であるかどうかは問題ではなく、むしろその可能性、潜在性こそが問題を形成するのだ。

敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、特に強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる。したがって、極端なばあいには、敵との衝突が起こりうるのであって、この衝突は、あらかじめ定められた一般的規定によっても、また「局外にあり」、したがって「不偏不党である」第三者の判定によっても、決着のつくものではない。[…]つまり、具体的に存在する衝突事例において、他者としてのあり方が、自己流の、存在の否定を意味するか否か、したがって、自己流の、存在に応じた生活様式を守るために、それに抵抗しそれと闘うか否かは、当事者のそれぞれが、自分で決定するしかないのである。[…]友・敵概念は、隠喩や象徴としてではなく、具体的・存在論的な意味において解釈すべきである。(p16-17)

さらに、シュミットにとって重要なのは、友・敵概念は、敵を規定し、そこに向けて闘争の可能性があり、その決定を下す主権を構成するだけではなく、敵に対して友の結束をも促しうる。

いずれにせよ、重大事態を踏まえての結束だけが、政治的なのである。その結束は、それゆえ、つねに決定的な人間の結束であるし、したがって、政治的単位は、およそそれが存在する限りはつねに、決定的単位なのであって、かつ、例外的事態をも含め、決定的事態についての決定権を、概念上必然的につねに握っていなくてはならない、という意味において「主権をもつ」単位なのである。(p36)

もちろん、こういった敵=他者の切り離しにおいて、担保される友=同質性は、批判されるべき射程にある。しかし、友・敵をめぐる闘争という概念は、多文化・多元主義の文脈を豊穣にしたし、かつ他者を「人類」や「人権」ないし「市民」において偽りながら包摂する自由主義の「欺瞞」も、ある意味で明らかにしてきたのだった。


フーコーについて扱った論文Joseph Rouse,"Power/Knowledge"を読んだこともあって、フーコーの闘争/知/権力という図式を思い出したりもした。もういっかい、かつてよく分からないまま読んだムフも読み直さないとね、いけないんですかね、、、。ぷり。