'10読書日記51冊目 『虐殺器官』伊藤計劃

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

p414
総計15385p
 罪に対して罰が与えられる。罪人は罰を甘んじて受け入れようとしないだろう。世界の果てまで逃亡し、自らの罪を認めようとしないだろう。そのような『罪と罰』の物語は、前世紀のものだ。今世紀の『罪と罰』は本書によって示されている。
 いまや、罪に対して罰は与えられず、言い換えれば、罪そのものが罪とは認められない。罪の不安、罪の不可能性。
 前世紀の罪人は、自らがなした罪に与えられる罰から逃れようとする。人は自らの行為を罪と認めようとしない。しかし、本書を読んだ者からすれば、そういった罪-罰からの逃走が可能であるなら、むしろ幸福だと言わざるをえない。そこにおいて、人は自らの罪を逆に同定しうるのだし、自らの意志の積極的同一性をも素直に受け入れているのだ。こう考えればなおよく分かる。罪人の逃走の仕草は、自分の犯した罪を確固たるものにしている。罪人は、自らが意志して為した行為の罪を負う。その罰は罪人の行為の根拠たる罪人の意志に向けて与えられる。それゆえに、罪人は逃げることができる。罰が確実であり、その確実性を担保しているのは、根底的には、罪人の行為の意志の確実性だ。それゆえに、罪人は逃げることで自らの意志の存在を証明することができる。

命題「私は、私が(意志して犯した)罪に対して罰を受ける」

 しかし、その罪が、私の預かり知らぬところでなされたものだったとしたらどうだろうか。あるいは、私は私が自分の意志で罪をなしたと思っているが、それは全くの誤想であって、本当は、そのように意志することが運命づけられているのであったとしたら。いや、「運命」などという言葉は仰々しすぎるし、この管理環境管理社会には不釣り合いだ。もっと冷たく無機質な言葉、「プログラム」が適切だ。自分の為した罪の根拠が、自らの自由意思に存するのではなく、「プログラム」にあるのだとしたら、どうだろうか。命題は今やこう書きなおされる。

命題’「私は、私の(犯したと思っている)罪に対して、罰を受けない」

罰は決して与えられず、それゆえに、罰からの逃走は不可能である。むしろ人は、自らの行為が自由意思に基づくものであることを、翻って、自己同一性を、自己の唯一性を、実存の積極性を確証するために、罰を要求するだろう。かつては、自らの実存ゆえに罪が生じ、それに対して罰が与えられていた。しかし、いまや、人々は極めてマゾヒスティックにふるまわねば、実存は確証されない。罰を請うのだ。罰を請い、罰せられて初めて、自らの実存は保証されるのだ。だが、決して、そんなありがたい罰は、実存の蜜をたらしてくれる愉悦の罰は、くだされない。いつまでたっても、罰は訪れない。