'10読書日記63冊目 『夜の果てへの旅』セリーヌ

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

381+427p
総計19559p
ヨーロッパ旅行の間読んでいた本。戦争・植民地・アメリカ・貧困などなど、筆者の経験をもとに書かれた小説。過酷なまでのニヒリズムに溢れている。「生きるに値しない」世界への嫌悪。テンポよい文体、めくるめく悪罵が痛快だ。
しかし主人公バルダミュは、本当に人間を嫌悪しているのだろうか。「生きるに値しない」「汚辱に満ちた」世界を嫌悪しこそすれ、人間への嫌悪はうわべだけに見える。彼は「生から死への旅」をゆく。人生とは、汚辱にまみれた夜の果てへ、闇の奥底へ向かう旅にほかならない。
その旅の果てには

もう何も言うべき言葉もなかった。わが身に起こりうる一切の事柄の果てに到達したときに完全に孤独になる瞬間があるものだ。この世の果てだ。悲しみまでが、自分の悲しみまでが、もはや何ひとつ自分に答えてはくれない。そうなればもう一度、引っ返さなくちゃならない、だれでもいい、人間たちの中へ。そのときは気むずかしいことは言っちゃおれない、なぜなら、泣くためにも、もう一度、振り出しに、人間たちのあいだにもどらねばならないからだ。

バルダミュの長い旅につきまとう、人生の師匠、パトロンとも言うべき人物がいる。この人物、もはや老いに片足を突っ込んだ人物こそ、ロバンソン*1である。ロバンソンは、あらゆるところに固着することを嫌い、ただ自らの生を生きるためだけに生きる。彼は誰の愛情も求めない。人生に対して完全に卑屈になりきっているのだ。引用した部分は、バルダミュがある事件によって失明同然になってしまうところを、バルダミュが表現した部分である。バルダミュはロバンソンの影に付きまとわれ、彼に親しみを見いだしつつも、そこから逃れようともがく。もがけばもがくほど彼の生き方に近づいていく。だが、バルダミュは、最後の最後で、ロバンソンにまで至ることは無い。バルダミュは徹底したニヒリズムに、人生と人間に嫌悪することにコミットすることはできない。バルタミュは結局のところ不完全なニヒリズムを生きざるを得ない。結局、ロバンソンは「人間たちのあいだにもど」ることは無かったのだ。

僕の放浪、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ! 果てまで来ちまったのだ、僕たちは!(…)要するに、それは青春の回復を願う気持ちの表われだ……僕に気兼ねは無用だ……第一、僕にはもうそれ以上耐えしのぶ覚悟もなかった!……そのくせ僕は人生でロバンソンほど遠くまで行きついてもいなかったのだ!……結局、成功しなかったのだ。奴が痛めつけられる目的で身につけたような、頑としてゆるがぬ一つの思想を、僕はついに者にすることはできなかったのだ。

つまるところ、ロバンソンが生に対して決定的な否定であったのに対し、バルダミュは違った。彼は人間に嫌気を催しながらも、自らのセンチメントに浸ろうとした、自らを愛そうとしてしまった。

僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。

この悲しみをバルダミュは追い求めた、そしてロバンソンはそれさえ拒否した。僕らはバルダミュになれるだろうか、いや、ロバンソンにはなれないとしても、バルダミュにならざるをえないのだろうか。夜の果てに、世の果てに。

*1:ロバンソンはRobinsonのフランス語読みである。明らかに、ロビンソン・クルーソーへの皮肉的な参照があるだろう