'10読書日記73冊目 'What Is Nature?' Kate Soper

What is Nature?: Culture, Politics and the Non-Human

What is Nature?: Culture, Politics and the Non-Human

289p
総計22272p
<nature>を、幅広く思想史から解きほぐした浩瀚な本である。西洋思想史のなかで、自然概念が占めていた位置は大きい。多神教的世界の自然、キリスト教世界の自然、デカルト以後の自然、フェミニズム以後の自然、環境思想の自然etc。自然と社会、あるいは自然と人間、自然と文化、自然と性差、自然と啓蒙など、様々な対概念が複雑に絡み合い、もつれている。筆者は哲学史どころか文化・表象の観点からも、natureを総覧していき、その広がりと複雑さを整理しなおす。
だが、この本が優れていると思われるところは、思想史の中でのnatureを洗い出すにとどまらず、その後に、それをもとにして、現代のnatureが抱える問題――特に、フェミニズム、環境――へと議論を進めていくところであろう。中心になっているのは、環境問題をめぐる議論である。そこで、もっぱら批判の槍玉に上がるのはポスト構造主義(あるいは構築主義)と、ディープ・エコロジストといわれる自然絶対主義だ。フェミニズムは、natureの女性化/女性のnature化によって、あるいはもっと一般的にnatureのジェンダー化/ジェンダーのnature化によって、natureが規範性を帯び、女性の抑圧や性的逸脱者の排除を正当化してきたと批判してきた。また、さらに、自然とは<自然>にほかならず、文化的構築物にすぎないことを明らかにし、自然=本質主義への批判においても貢献してきた。だが、Soperはこうした構築主義に批判的である。というのも、環境や自然保護の観点に立てば、構築主義はあまりに人間中心主義的だ、というわけである。確かに表象レベルでの<自然>は文化的構築物であるが、それでも実際に破壊されている自然は存在する。構築主義一辺倒の議論は、自然保護をめぐる議論(Soperはそれだけでなく構築主義では、女性やマイノリティの身体の抑圧についても語れなくなる、と議論するが、そこは少し留保をつけたいところではある)において単に失効するのではないか、というのがSoperの主張である。だが、一方、人間以外に自然に固有な価値を見出し、それを自然保護の根拠にすえようとするディープ・エコロジーの主張も、論理的に崩壊していると、Soperは言う。端的に彼女の主張を要約すれば、いくら自然に固有の価値があるとはいえ、それを保護するのは人間であり、また、自然に存在する固有の価値も、たいていの場合に人間の価値観の投影をそこに見出しているだけに過ぎない、というのである。
Soperの立場は、自然は人間「自身」のために保護されなければならないというものである。自然環境思想は確かに、人間中心主義や道具的理性を批判してきたが、そうはいうものの、自然を保護するための論拠を提供するのは人間がそこに投影する価値観であり、また、自然を実際に保護しなければならないのは人間自身である。こう論じてから彼女は環境<倫理>の問題へと論じ進めていく。しかし、そこで議論されるのは、環境の正義論だけではない。つまり、自然破壊/保護の不平等性をどう克服するか、というマクロレベルの問題だけではない。Soperはもっとラディカルに、しかしディープ・エコロジスト(や反近代科学主義やスピリチュアルブーム)とは違ったやり方で、自然保護を真剣に考えるなら、必ず論じなければならない問題があるという。それは、ミクロレベルの倫理、すなわち古代ギリシア哲学の言う意味での倫理ethics、個人の「善き生」としての倫理にほかならない。現在の消費社会における個人の行動は、確実に環境に負荷をかけている。その消費行動をどうにか転換しないと自然が'もたない'ことは明らかだろう。しかし、このようにして、Soperによって、自然保護のために要求される倫理は、たんに「自然を守ろう」とか「自然の固有の美しさ・価値に配慮しよう」などといった義務論ではない。それはむしろ「快楽主義」である。

もし真剣に自然を保護しようと(したがって自然を搾取することによるリスクから人間自身を守ろうと)するなら、同時に、そのために私たちが物質的に何を慎むのを厭わないのかということについても、真剣に考えなければならない。あるいは、もっと明確に言うなら、私たちは快楽主義(hedonism)そのものを再考する必要があるのだ。(p268-269)

彼女によれば、大量消費=快楽主義=放蕩=自然破壊という等式は、近代の資本主義社会のもとにおいてのみである。さらに、こうした近代の消費は、実のところ快楽主義でさえない。近代の大量生産された商品は、肉欲には全く無頓着であり、むしろ性感的・感覚的な快楽を遠ざけたところで成立しているというのだ。そのような偽の快楽主義ではなく、自然に対してとるべき新しい快楽主義(hedonism)があるのではないか、とSoperは提案する。そして、それは当然、近代の大量生産-大量消費を否定するような快楽-倫理であるはずだ。そして、この意味で、まさに自然保護を成功させようとするSoperの思想は、リベラリズムや自由市場と相容れなくなる。Soperがラディカルなのは、個人の倫理に対して政府が規制をかけることさえ論じる点である。エコ社会主義にまで、踏み込もうとするのだ。しかし、もちろん、単に政府が個人の行動-倫理に規制をかけろという議論は、全体主義への危惧を招くだろう。しかし、本当に自然保護について考えるならば、個人の行動-倫理は転換されなくてはならない。そのためには、単に政府-国家が〈倫理〉を上から押し付けるのではなく、個人を自然保護に適した(消費)行動に向けるようなインセンティヴとして〈倫理〉が現れなければならない。Soperによれば、新たな快楽主義は、現在の大量生産-大量消費のあり方から離れたときにこそ、現れるものだ。個人の倫理として、自然保護に対して本当にインセンティブを与えるものが、「快楽主義」なのだ。それは、つまり、大量生産-消費のサイクルから抜け出した商品を買うことや、そのサイクルから外れた行動を取ることが、快楽を生み出すかもしれないということを、新しい快楽主義として提示することである。

利他主義に訴えかけるのも良いが、それは個人の利益に訴えかけることで補われねばならない。そのとき、強調されるのは、ただ自然破壊の悲惨さやリスクが緩和されるだろうということだけではなく、現在の市場によって定義され、資本主義的に促進される善き生の考えを捨て去れば快楽(pleasure)が得られるということでもある。言い換えれば、多くの人々が、物の所有に固執することがより少ないライフスタイルを送り、その満足感の魅力を経験してはじめて、資源を大量に使い、自然を酷使する消費形式を抑制するための、強制的な政策について本気で考えるようになるだろう。もし、市場のオルタナティヴを実現する可能性についての(多くの点で公平で)真剣な懐疑に対して、それを覆すようなチャンスがあるとするならば、そのときには、社会主義的な議論が必要になるだろう。しかし、それは、「本当の」真の民主的な社会主義的秩序を実現する制度についての説得力のある青写真に裏打ちされているだけでなく、別の快楽主義のヴィジョンによっても、裏打ちされていなければならない。(p271)

Soperはこの別の快楽主義(alternative hedonism)がどのようなものかは提示してはいないし、僕らは、それは実際に、ディープ・エコロジストの提案するような倫理とどの程度違うのか、あるいはスピリチュアル・ブームや「ロハス」などと一緒ではないのか、と詰問しなければならないだろう。しかし、Soperのラディカルさは嫌いではない(とはいえ、不満が残るのは、僕らは本当に自然を守らなければいけないのか、ということについて十分に議論がされていない点である)。Kate Soperは、(wikipediaの情報によれば)マルクスサルトルに影響を受けているらしい。本書の最後の二行は、サルトルの言うような実存主義的な投企を思わせるものになっていて、環境思想からこのようなアプローチをほのめかす点も面白いかもしれない。

自然により接近するということは、ある意味で、私たちは最終的に自然と同等であることはできず、自分と自然を同一視することなどできない、という点においてより不安を経験することである。しかし、もちろん、まさにそのプロセスの中で、私たちはまた、人間のアイデンティティそのものについての感覚を変容していくのである。(p278)