10'読書日記89冊目 『量子の社会哲学』大澤真幸

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

361p
総計27460p
「革命は過去を救うと猫が言う」というサブタイトル。
大雑把なストーリーとしては、科学革命(ニュートン)⇒相対性理論量子力学という科学史的な構造転換と、社会の構造転換を類比的に叙述していくというもの。というか、科学史と社会構造の間に、共振関係を見つけていこうとする試みと言ったほうが適切か。その当否や議論の妥当性はさておき、科学から芸術、文学、映画、宗教、精神分析にいたるまで広範に描かれる共振的な論理構造を、通覧していくのは面白い。
量子力学パラダイム(あるいは筆者の用語系で言うなら「不可能性の時代」)のパラダイムは、それまでの認識論とは隔絶している。「認識」が、本質と現象の一致に求められるとしたら、量子力学時代の認識論は、それとは逆の構図になっている。それまでの認識論なら、現象は特殊・有限なものであり、その彼方に本質があるものだと考えられていた。しかし、量子力学はその構図を反転させてしまう。光が持つ粒子と波動の二重性という、厄介な現象を前に、認識論は反転を余儀なくされてしまうのだ。そこでは、光を観測したとき、光を粒子だと観測したとしても、実験結果としては光が波動であるという痕跡が確認できてしまう。観測者は常にだまされてしまうのだという。量子力学においては、現われの彼方に本質があるのではなく、逆なのだ。つまり、

限界があるのは、むしろ本質の方である。というのも、今や「本質」は、現れの幽霊的な随伴物でしかないからだ。つまり、「波動」(本質)が直接に現前することは原理的にありえず、それは、ただ、「粒子」としての現われの「不十分さ」において暗示されているだけなのだ。このような「本質」の限界こそが「現われ」を可能にしている――「現れ」そのものである。

普遍的たる「本質」がもはや不可能であり、「本質」が不十分であるからこそ「現れ」があるというような事態において、では、どこに普遍性が担保されるというのか。ここからが、本書の面白みであろう。ありていに言えば、筆者はこの問いに、レトリカルに、というか言葉遊びみたいにして、答えてしまう。

そうであるとすれば、(…)普遍的なものは何も残らないのか? そうではない。このとき、普遍性を否定する力、それだけが真に普遍的なものとして残存することになるはずだ。

急いで付け加えなければならないが、これには単なるレトリック以上の意味合いがある。普遍的なものとして提示されたものは、すぐさま別の普遍的なものとして提示されたものと衝突する。このような事態こそ、まさに現代的な世界であろう。リベラリズムの正義は、普遍性を模した特殊な善にほかならない、というのがコミュニタリアンの批判であった。この立場は、良くて共同体主義、悪くて文化相対主義である。互いに異なった文化の存在を認めながら、すなわち、互いにはらまれる差異を承認しながら、では、どのようにして普遍性が、あるいは連帯が可能なのか、ということは大きな問題である。このような問題に対して、筆者が提示するのは、普遍性からの離脱、普遍性を否定するベクトルのみが〈普遍性〉を持つ、ということである。このことは「生きるための自由論」でも触れられていたことだ。

本書では、このことからさらに時間哲学へと進んでいく。過去/現在/未来という時間系列の分節がそこでは問題とされている。このあたりは非常に興味深いが僕にはまだ難しい。トンデモ本だとか言われたりしている本書であるが、少なくとも僕にとっては示唆に富んだ本だった。ただ、雑誌の連載であるせいか、繰り返しの部分が多いところが少し不満。