'10読書日記90冊目 『国家と革命』レーニン

国家と革命 (ちくま学芸文庫)

国家と革命 (ちくま学芸文庫)

274p
総計27734p
マルクスは「国家」についてあまり多くを語らなかった。国家についての理論は、『ヘーゲル法哲学批判』や『ドイツ・イデオロギー』ほか一部に現れる他は、『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』『フランスの内乱』のフランス三部作にある程度である。私はマルクスマルクス主義とを別個にして考えるべきだと思うが(後者はエンゲルスが大きく寄与していると思われる)、マルクスにおいて国家の問題が多くを割かれていないことは、マルクス主義にとって大きな欠陥をもたらしただろう。というのも、たとえプロレタリア革命が為されたとして、その後の国家はどのようになるのか、というところが空白のまま残されているのだから。
本書は、マルクスレーニン主義の国家観*1を余すところなく伝えている。それによれば、

国家とは、階級対立が解消できない状態にあることの帰結でもあり、反映でもある。客観的に階級対立が解消不可能になると、そのとき、その地域で、そのことが原因となって、国家が発生するのである。また、その逆でもある。すなわち、国家の存在は、階級闘争が解消不可能であることの証左でもある。(p18)

レーニンは、ここで注意を喚起する。日和見主義者(修正主義者)のように、国家を階級闘争の和解装置とみなしてはならない。むしろ国家が巧妙なのは、一見階級対立を和解させるような秩序を形成するかに見えて、ブルジョアによるプロレタリアの抑圧を合法化・固定化するところにある。つまり、レーニンを介してマルクスが言うには、「国家は階級支配の機関、すなわちある階級が他の階級を抑圧するための機関」なのだ。とすれば、プロレタリアが目指さなければならないのは、資本主義から共産主義への転換の途上にある、国家の廃絶にほかならない。
レーニンにおいて、国家は権力と同一視されている。それは、社会から発生したにもかかわらず、社会を抑圧し、社会から疎遠なものである。国家が権力と等置されるのは、近代の集権的な国家が、つねに常備軍と官僚を備えているからである。もちろんそこには、監獄や警察も含まれる。そうした権力としての国家は、資本主義体制において、いっそう「専制的」になる。というのも、たとえ政治体制が民主共和制として代表性議会を持っていたとしても、その議会は金銭によって官僚制を手篭めにしてしまうからだ。結局、民主共和制と言えども、それは「制限の課せられた」民主主義でしかない。代表となれるのは、ブルジョアだけである。マルクス・エンゲルスレーニンの認識によれば、これまでの革命を通して、そのたびに官僚機構と軍事機構は発達してきた。そしてその最高潮の高まりは、侵略戦争としての第一次世界大戦に帰結した。この時代には、帝国主義的国家と、銀行資本や独占資本が全盛にあり、独占資本主義が国家独占資本主義へと転化しつつある。まさに、弁証法的な見方をしてレーニンは、この時代、国家と資本が最高潮に達する時代にこそ、前面的なプロレタリア革命が為されねばならないと考えているのだ。
では、どのようにして国家が廃絶されるのか。いや、このような言明にこそレーニンは執着する。レーニンによれば、マルクスは、国家が死滅すると考えたのであり、国家は廃絶されるわけではない。無政府主義者であれば、国家を廃絶せよと言うであろう。しかし、本当のマルクス主義者であれば、国家は死滅する、と言わねばならないというのだ。詳しく見ていけば、まず、プロレタリア革命によってブルジョア国家は確かに廃絶される。しかし、革命後にはやはり国家機構が存在し続けるだろう。それはブルジョア的な国家ではなく、新たな様相を呈した国家機構、プロレタリア国家である。プロレタリア国家の中で

ブルジョアジープロレタリアートを、また一握りの金持ちが何百万人もの勤労者を「抑圧するための特別な権力」は、プロレタリアートブルジョアジーを「抑圧するための権力」(プロレタリアート独裁)に置き換えなければならない。これこそ、「国家による国家の廃絶」であり、社会の名において生産手段を支配下におさめるという「行為」なのである。(37-38)

こうしたプロレタリア独裁による国家は、独裁でありながら同時に民主主義、しかも最高度の純度を保った民主主義という形をとる。一見奇妙に思えるが、レーニンは、こうしたプロレタリア独裁による純粋な民主政は、「廃絶」されるのではなく「死滅」するのだと述べる。ポイントは、ブルジョア国家は死滅することなどはなく(暴力革命によって)「廃絶」されねばならないが、革命後のプロレタリアート独裁は廃絶されることはなく、それが完遂されれば弁証法的過程を経て、死滅するのだ。プロレタリアの国家は、ブルジョアを抑圧する。今まで抑圧されてきた者らが抑圧してきたものを抑圧せねばならない。プロレタリアにとって国家が必要になるのは、この抑圧者の搾取を成し遂げなければならないからだ、というわけなのだ。レーニンは、プロレタリアにしか、この革命を遂行することができず、指導力を持たないと考えている。それは、ルカーチの言葉で言うなら、プロレタリアのみが「階級意識」を持つからである。

プロレタリアートはその経済的な生存条件ゆえにブルジョアジーの支配を打倒する構えができており、また、それだけの力と強さを備えているからである。〔…〕大規模生産において果たす経済的役割に支えられて、プロレタリアートだけが、すべての勤労・被搾取大衆を指導する能力を持つ。プロレタリアートに指導される人々は、プロレタリアに劣らず、ブルジョアジーによる搾取・迫害・抑圧を被っているが、自己の解放を目指して独自の闘争を貫徹するだけの力を欠いている。(p51-52)

もちろん、こうした啓蒙的な教養あるプロレタリアを作るためには、党による系統的な指導が必要であろうことは予測が付く。が、レーニンはそこにはあまり触れてはいない。プロレタリアは労働者党として革命の前衛に位置しなければならないのだ。
しかし、どうしてプロレタリア国家は自然と死滅するなどということが起こるのだろうか。どうして、その国家は「死滅してゆく国家、正確に言うなら、ただちに死滅し始め、必ず死滅に至るように設定されている国家」なのだろうか。当然、プロレタリア国家は、ブルジョア国家の官僚制・軍事機構を粉砕したところに現れるのであり、日和見主義者のように、単に権力を奪取することによるだけでは不十分である。レーニンブルジョア国家からプロレタリア独裁への転化を、「量から質への転化」と呼ぶ。そして、それはもはや本来の意味では国家とは言えないものへと転化しているのだという。つまり、これまでのように(ブルジョア)国家が階級支配・抑圧の道具であるとするなら、プロレタリア独裁による国家は、もはやそのような機能を失っていなければならない。これまでは、ブルジョアがプロレタリアら他の階級を抑圧するために国家を利用しなければならなかった。しかし、プロレタリア国家においては、プロレタリア(人民)が自らの手で、弾圧者らを抑圧するのであるから、抑圧のための特別な権力は必要がなくなる。それゆえに、国家は死滅を開始する、というわけなのだ。
レーニンは、プロレタリア国家を、原始的民主主義への一種の退行だとみなしている。しかしそれは単なる古代ギリシアへの憧憬などではない。それは資本主義が成し遂げた文化的達成に支えられているがゆえに、可能になる*2。たとえば、郵便や鉄道、電話などの資本主義の産物を利用すれば、特殊な能力を有さずとも、いままで官吏がおこなっていた業務を労働者が代行することが可能になる。ここでは、代議制と官僚制の対立、あるいは腐敗した代議制は見当たらないと言われる。マルクスが「フランスの内乱」でコミューンに見出したように、プロレタリア国家での民主制は「議会的な団体ではなく、立法活動と法律の執行を同時に行う実働的な団体でなければならなかった。」すなわちそこでは、人民全員が、国家運営に参加することが条件になる。それは制限された民主主義であってはならない。

現代の雇用奴隷は資本主義的搾取という境遇に身をおいているために、窮乏と貧困によってひどく圧しひしがれたままの状態にあり、それゆえ「民主制どころではない」し、「政治どころではない」。また、事が平常どおり平穏に推移している場合、住民の大部分は社会政治活動から除外されている。(p165)

そうではなく、プロレタリアが達成すべき民主制は次のようにならねばならない。

すべての市民が、国民全体からなる一個の国家「シンジケート」の事務職員および労働者となるのである。(p190)

しかし、このような純粋な民主制へと至るまでには、もう一段階踏まねばならない。それは社会主義の段階である。そこでは、生産手段は社会全体のものとなり、社会によって各人の労働が割り当てられ、社会全体から全ての人に平等なだけの生産物が給付される。この段階では、「平等な権利」が実現される。しかし、この社会主義の段階は、決して共産主義ではない。平等な権利は、ブルジョアの権利であり、それが前提としているのは、不平等である。つまり、人間は様々に異なっているがゆえに、平等の権利を持たねばならない、というわけである。だが、それゆえに、平等な権利は(トートロジー的ではあるが)不平等を再生産する。人間は実際には、決して一様でも同等でもありえず、強いもの・弱いもの・結婚者・未婚者・子持ちなど様々に存在している。したがって、単に労働に応じて生産物が分配されるだけならば、不平等は解消されない。つまり、社会主義の段階においては、(生産手段の私有が廃止されたため)確かにブルジョア的搾取は不可能になってはいるが、ブルジョア的権利は廃絶されてはいない。次の段階、すなわち共産主義へと至るには、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原則が実現されねばならないのだ。
ここで、まとめておけば、レーニンによる共産革命は次の順序を辿る。(0)帝国主義下で国家独占資本主義にまで発達した時代が訪れる。そこでは労働者と資本家の対立は最高潮に激化している。(1)労働者は、武器を持って、暴力革命によって、ブルジョア国家を廃絶しなければならない。(2)そのあとには、プロレタリアート独裁という形をとって、社会主義的な国家形態を選択しなければならない。そこでは、プロレタリアによるブルジョアの抑圧が為され、生産手段の私有が廃絶される。そして労働と生産物は国家を通じて分配される。(3)そして最終的に、共産主義社会を、社会主義国家は目指さなければならない、とされる。(2)から(3)へ至る道のりをレーニンは具体的に記してはいない。しかし、レーニンはその道のりが達成されるための条件は書き記しているようだ。それを読み取らずに、ただ暴力革命の必要性だけを本書に認めるならば(そして今まで多くの人らがそうしてきたのであろうが)意味がないし、単なる害悪である。本書は、この点においてまさに、反面教師とならねばならない。
われわれは、本書を読みながら、こう問うべきなのだ。こうした平等で抑圧や暴力のない社会とは、どういうものか。共産主義社会における、国家の死滅とはいったいどのようにしてもたらされるのか。それを、われわれは望んでも良いのか。われわれは、このことについて、フーコーを経た後ではいっそうよくわかることだが、フーコーを経ずしてもそれを理解することができたはずだ。われわれは、レーニンを確かに読むことで、このことについて確かな展望と恐怖をもてたはずではないか。実際、レーニンは、そのことについて、後に見られるようなロシアの全体主義を予見するかのように、しっかりと記述している。「人間一般に対して暴力を行使する必要や、ある人を他の人に、また一部住民を他の住民に服従させる必要が一切なくなる」、そのような民主主義(共産主義)は、国家を死滅させるだろう。だが、それはどうやって達成されるのか。レーニンによれば、それは「慣れ」によって、である。

資本主義型の奴隷制や、資本主義型搾取の数限りない非道・蛮行・横暴・悪徳から解放されて、人々は、何世紀も前から知られていて、数千年もの間あらゆる処世訓の中で繰り返されてきた基本的な社会生活のルールを遵守することに次第に慣れる。しかも、暴力や強制に縛られなくても、服従を強いられなくても、また国家と呼ばれる強制のための特殊装置に縛られなくても、そうしたルールを遵守することに慣れるのである。(p169)

当時、この言葉を読んだ人らが、「慣れ」が孕む危うさに気付かなかったとしたら、そして実際に気付かなかったのだが、それは愚かだったと言わざるを得ない。「慣れ」が実際にどうやって浸透するのかを考えればよい。考えずとも、レーニンのテクストを読めばそこには確かにはっきりと答えが書いてある。「慣れ」を浸透させるためには、あるいは人々を共産主義の原則に「慣れ」させるにはどうしたらよいか、具体的に言い換えた箇所をいくつか挙げてみよう。

資本主義の既存の成果に立脚して大規模生産を行うのは、われわれ労働者自身である。その際われわれは、自己の労働体験に基づき、きわめて厳格な鉄の規律を設定し、それを、武装労働者の握る国家権力によって支えてもらう。(p95)

郵便、鉄道、大工場、大規模商業、銀行業務等々の巨大かつ複雑で社会化された装置を用いて何百万人もの労働者に「教育と規律」を身につけさせておくことも、前提条件となる。(p189)

「鉄の規律」!「教育と規律」!もっと直裁的には、次のように書かれている。

全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。(p192)

もはや何も付け足すべきことはないだろう。レーニンが夢想する共産主義社会、暴力革命と社会主義国家の後に現れるべき共産社会、これらのためには「規律」と「監視」が、厳格に行われなければならないことは、レーニン自身によって明らかにされているのだ。このことは、しかし、レーニン主義者だけではなく、政治思想における共和主義にも深刻な影響を与えるだろう。というのも、原始的民主主義あるいは、ルソー的一般意志が現前化した民主主義は、まさに「規律」と「監視」なくしてはありえない、市民的徳civic virtueを全ての人民が持つということは規律と監視の所産にほかならない、こういったことが上記から明らかなのだから*3

*1:仙石官房長官の「暴力装置」という言葉の思想史的由来については、twitter上でも色々と議論されていた。一つには、やはりレーニンの本書にその直接的な言明がある。「国家は特別な権力組織であり、何らかの階級を抑圧するための暴力組織である。」(p50)しかし、おそらく仙石官房長官がいった自衛隊暴力装置である、というのは階級史観とは結びつかない。自衛隊は、端的に、武力を持つという意味で暴力装置であろう。

*2:このあたりの話しは、近年の東浩紀の一般意志2.0と近しいものを感じさせる。

*3:かつてフーコーは、ルソーの議論を引き合いに出して同様のことを述べていた。「ベンサムはルソーの相補者だと私は言いたいですね。実際、多くの革命家たちを鼓舞したルソーの夢とはいかなるものでしょうか。そのどの部分をとっても見てとれ、かつ読み取れるような透明な社会の夢です。〔…〕おのおのの人間が、自分の占めている点から社会の全体を見ることができるようになることです。〔…〕かくして、ルソーの大きなテーマに――これはいわば〈革命〉の抒情なのですが――ベンサム固定観念であった、「万物注視」の権力行使の技術的な観念がつぎ木されます。」「権力の眼」『フーコー・コレクション4』p382-383