'10読書日記93冊目 『カント 世界の限界を経験することは可能か』熊野純彦

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

125p
総計29191p
熊野先生によるカント。純粋理性批判判断力批判にほぼ議論を絞っている。中心になるのはカントの神/理性の深淵/崇高にまつわる事柄である。すごく薄くて、文章も平易なのですぐに読めてしまう(し、勉強になることも多い)。読書案内も充実!
カントは、神の存在証明の不可能性を論じた。だが、人間の理性はそのように存在不可能なものに直面してしまえば、慄かざるをえない。ここで、カントが無神論者ではなかったこと(むしろ敬虔なプロテスタントだったこと)を想起してみよう。すると、この「理性の深淵」を覗き込んだ時の慄きの感情こそが、神への経路として残されていることになる*1。この慄きの感情こそ、カントが判断力批判で追求した「崇高」の感情である。崇高とは、人間の構想力(想像力)や認識の限界を超えたもの(自然の景観の壮大さや、自然現象の力強さ)を前にしたときに引き起こされる感情に他ならない。筆者が言うように、カントは、崇高なものと人間の理性ではとらえられないもの(存在証明の不可能なもの)を相関的に捉えているのだ。だが、神あるいは理念は、決して現象としては現前しない。では、どうやって理念としての神を信じることができるのか。筆者は、カントが、理念としての神への信が、「呈示することの不可能性による呈示」という形をとって、確立されているのだと、説いている。少し詳しく見れば、こうなる。すなわち、自然現象の法外さに直面した時、人間は、自らの構想力ではそれをとらえきれないという不可能性の感じを持つ。ここにおいて、つまり、不可能性によって、理念としての神が呈示されているというわけだ。
筆者の議論は整然としているし、何度も立ち止まり繰り返してくれて、わかりやすい。だが、これが否定神学以上のなにものでありえるのかよく分からなかった。(いや、もちろん、否定進学でなにがわるいのかという立場もありえるが)。
他にも勉強になったこと。カントの「超越論的観念論」が言わんとするところ。空間と時間とが、現象のア・プリオリな形式的条件だということは理解していた。が、それが二重の意味を賦与されていて、その二重の意味において「超越論的観念論」をなしていたということは、僕の理解不足であった。つまり、一方では、

一切の対象は必ず空間と時間の中で経験される。そのいみでは、時空は経験的には実在的なもの、つまり経験される<もの>そのものに帰属するありよう

であって、それをカントは「経験的実在性」と呼んでいる。他方で、時間と空間は、

認識のなりたちと対象との関係を問い直す立場、超越論的な視点からすれば、たんに「人間という立場からだけ」語られることができる。そのかぎりでは、時空は超越論的には観念的なもの、「すなわち経験の外部に存在するはずの物自体には帰属しないものである。

この「経験的実在性」と「超越論的観念性」の二重の性格を、空間と時間に認めることが、カントの「超越論的観念論」の意味だった・・・らしい。とはいえ、まだまだ物自体と実体、叡智界との関係など、不明瞭なところがいっぱいや・・・

*1:逆に神の存在証明が可能であると断言し実際に証明しえた者と、カントのように存在証明が不可能であるとする立場の者と、どちらが真に神の権威を信じているのか考えてみればよい