'10読書日記98冊目 『静かな生活』大江健三郎

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

327p
総計30859p
『新しい人よ眼ざめよ』『雨の木を聴く女たち』につづく、連作短編。今回は、大江の娘を思わせるマーちゃんが語り手となって、大江本人を思わせる父Kが妻ともどもアメリカの大学に行ってしまった後、取り残された家族の日々を描いている。障害のある兄イーヨーと、受験を控えた弟の真ん中に立って、両親不在の一家をやりくりするマーちゃんの心理描写が素晴らしい。大江は、decentという言葉が好きだが、まさにマーちゃんはdecentなのだ。僕は「新しい―」も「雨の木」も好きだが、本作も実にすばらしい。
「静かな生活」で取り上げられたテーマは、イーヨーそのものである。知的障害者としてイーヨーが、社会の中でどのような位置づけを与えられるのか、また、自分で選ぶのか、そしてイーヨーに付き添うように生きようと決心するマーちゃんが、自分をどのように観ているのか。それは物語の半ばで呈示される「なんでもない人」を中心にして回転していく。実際、イーヨーは「なんでもない人」なのかといえば、今の社会ではそうではないとしか言えない。障害者が「なんでもない人」とみなされる社会は、まだほど遠い。では、マーちゃんはどうか。マーちゃん自身も自らのことを「なんでもない人」であるかどうか自問し、そうではないと結論してしまうのである。父が小説家Kであるということ、そして、「なんでもない人」ではない兄を持つということ、こうしたことから、いつのまにか、自分も「なんでもない人」だとは思わないようになってしまったと、マーちゃんは感じるようになる。そのように感じる導きとなったのが、イーヨーが作曲のレッスンを受けている家の奥さんのこうした言葉からだ。

私があくまで普通の頭で考えているのはね、自分をどんな些細なことにも特権化しないで、なんでもない人として生きているかぎり、余裕があるということだわ。その上で自分なりに力をつくせばいいわけね。(…)それでもね、なんでもない人として生きる覚悟をつらぬけば、(…)死ぬ際にも余裕をもってゼロにかえれるという気がするんだわ。ほとんどゼロに近いところから、ゼロへ、ということで。死後の魂とか、永遠の生命とかいうことを気にかけるのは、自分について特権化した感じ方じゃないの?

実際、この言葉は僕に深く突き刺さった。なんでもない人ordinary peopleとして生きること、ましてそのように自分を諌めつつ生きることは、僕にとって非常に難しい。それは、傲慢な若さというようなものかもしれないが。しかし、マーちゃんは、この「なんでもない人」として実にニュートラルに振舞おうとして見せる。Kの偏屈さや、周囲の歪みなどが、彼女を通して語られたとき、それはdecentなものとなる。大江は、実際に、この語りに成功しているように思う。そのニュートラルさ、自分を「なんでもない人」として貫こうとする語りによる努力は、最後の「家としての日記」で起きる陰惨な暴力事件に顕著である。この連作最後のこの短編――後味がいいとは決して言えない――には、「新しい人よ眼ざめよ」(だったと思うが)の最後で描かれた暴力事件を引き継がれている。イーヨーの水泳教師を引き受ける新井という青年は、かつて性暴力の事件にかかわったのではないかと目された人物だ。マーちゃんはそのことを知らずに新井と関係を持ち、最後の最後にはレイプされかけてしまう。そしてすんでのところでイーヨーに救われ、事なきを得る。新井の人物描写には、マーちゃんを通して書かれているため非常にニュートラルなのだが、そこからでもあふれる過剰な悪意が持たされている。しかし、その悪意は、決して直接的に罰せられたり帳消しにされたりすることがない。マーちゃんは、新井のレイプ未遂を経ても、そのdecentさを失わないように努めているようだ。それゆえ、読後感は、どうしてこのような悪を大江が書き、そして悪を滅びさせないのか、という不穏なものになる。「静かな生活」は、そうした悪をなんとかやりすごすことでしかないのか、とまで深読みしてしまう。僕はこの結末をすんなりとは受け入れることができなかったが、「なんでもない人」たろうとするなら、このようであるしかなかったのではないか、とも思えるのだ。
ところで、思うに、大江は危うい小説家だ。一つは主題の危うさ。それは一見、小説家自身の生活と混同されるような書き方で選ばれている。当然、フィクションである以上、小説の中でしか起こり得ないような突拍子もない暴力沙汰などが出てくるのだが、読者は、本当に小説家一家にそのような出来事が起きたのではないか、とはらはらしながら読み進めることになる。もちろん、私小説風でありながらまったきフィクションであるという手法は、その突拍子もなさをリアリティの中に位置づけてしまう効果を持つその一方で、現実の生活者をも当然小説の中に巻き込んでしまうという逆説をはらまざるを得ない。もちろん、これは大江も熟知していることであり、彼の小説にはそれについてのメタ批評が幾度も出てくる。
もう一つ、彼の危うさがあらわれるのは、実際に語る言葉を持たない知的障害者である自分の息子を、小説のなかであれ、re-presentしてしまうことだ。このことは、先の点にも関係している。実際にパブリックに語る言葉を持たないもの、という点では、本作の語り手マーちゃんもそうである。大江の娘を思わせる以上、それは当然付きまとう問題だ。ポストコロニアルな批評を、あえてすれば、表象の暴力を感じさせてしまわざるを得ない。その点で、大江はかなり危ういところまで行きついてしまっている。現実を糧にして小説の想像力へ飛躍し、しかし現実に根ざしている(風に装っているため)その飛躍は飛躍とは見えない。この効果は絶大で、大江の小説を何作も読んでいけばいくだけ、それが身にしみてくる。しかし、同時に、小説が現実に及ぼす影響力も比例していくことになるだろう。実際、大江の最新作「水死」はそのようなメタ批判に貫かれたものだ。
ところで、大江はかつて「個人的な体験」を書いたときに、その「ハッピー・エンド」をめぐって三島由紀夫から批判されたことがあるという。三島いわく、それはとってつけたような「ハッピーエンド」で、小説の美しさ・完全さを損なうものだというのだ。それに対して、大江は今年の『すばる』12月号の沼野充義との対談の中で、この三島の批評に応えて、おおよそこのように語っている。小説の美しさという点でいえば、あの「ハッピー・エンド」はそれを損なってしまったかもしれない、しかし、実際に障害を抱えた子と、そしてその子を産んだ妻と実生活を営んでいくことを考えれば、あれは「ハッピー・エンド」にせざるをえなかったのだ、と。大江のこうした態度は、小説家として徹底していないと考えられるかもしれない(し僕もそのように思うところはある)。だが、小説よりも実生活を優先するという態度は、すぐれて政治的だとも思う。それは、三島よりも、政治的ではないだろうか。確かに三島は政治にコミットした。だが、三島の小説は、ほんとうに政治的だったろうか。いや、もうすこし正確に言うならば、小説家としての三島は小説がはらまざるをえない政治性に敏感だったろうか。大江は、何より、小説を現実に根ざして書く。現実をもとにして小説を練り上げる。そしてそれは同時に、小説が現実に及ぼさざるを得ない影響にも敏感でなければできないことだ。ぼくは、これが良いとか悪いとかいう価値判断をつけかねるが、大江が上述した小説と現実の葛藤に今に至るまで逡巡し続けるその態度は、その態度こそは、decentなのではないかと感じるのだ。