This will be our year

もうとっくに新年ははじまっているのですが・・・

みなさま あけましておめでとうございます。

僕はようやく明日から学校が始まりますが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか。あと三ヶ月足らずで24歳になってしまうなんて、何かの間違えのような気がいたします。
2011年はどういった年にしましょうか。
僕は先日カント読書会の発表で、画像のような図を作ってひとりで満ち足りたような気持ちになっていました(スヌーピーかわゆすですよね)。

修士論文のテーマは、カントをやるつもりでいます(まだ指導教官と話していないのでなんとも言えませんが)。
カントという人が哲学においてした仕事は、簡単にいえば、人間の認識の限界を見定めるということです。例えば、人間には神様が存在しているかどうかなんていうことは認識できません。というのも、認識出来るような神様なら、それは嘘っぱちの神様、ちんけな神様にすぎないからです。ですが、このことは神様が存在しない、ということを意味しているのではありません。神様が存在しないということもまた、同様に、認識できはしないのです(非存在を証明するのは難しいものです)。そうではなく、カントは、神様が人間には及びもつかない超越的な存在だからこそ、人間にはその存在も非存在も認識できはしない、と言うのです。それは、人間の認識の限界を超えたところにいるかもしれない(し、いないかもしれない)と言うしか無理なものなのです。
こうして書けば、「なんだ、カントは人間の認識がしょぼいということしか明らかにしてないじゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。確かにある面ではそうですが、カントはむしろ限界を見定めることで、限界内の認識の力をいかんなく解き放とうとした人でもありました。人間には、神様は認識できないが、この自然界なら十分に認識出来るのだし、そこに専念すべきだ、というわけです。

ところで、今日、報道ステーションを見ていたら、伊達公子の特集が組まれていました。40歳になってもまだ活躍する伊達さんに、テニスをしている人ならずとも、心を打たれるところがあると思います。彼女は、去年、テニスの四大大会のひとつ、全仏オープンで、元世界ランク一位の選手と戦い、見事、僅差で勝利を収めました。その試合の最中に、前から痛めていた右足が痙攣してしまうということがありました。コーチは途中棄権するように、彼女に何度も伝えたそうです。でも、彼女は、痙攣した足をカバーして、なんとか試合に勝ってみせたのです。まさに死闘を演じたわけです。
そのときを振り返って、伊達さんはこう言っていました。「周囲の人が考える限界のラインと、自分の本当の限界のラインには、隔たりがある。私は、自分の本当の限界の、一歩寸前まで追求したかったのです。」
限界を見定めるということは、全てを諦めるということではなくて、限界までいたる余力を発見するということのように感じています。

先が全く見えない世の中ですが、自分のよりどころとなるものが、みなさまに見つかることを祈っています。

新年の挨拶にかえて、この曲をどうぞ。
The Zombies "This wil be our year"

You don't have to worry
all your worried days are gone
this will be our year
took a long time to come