'11読書日記12冊目 『市民社会とは何か』植村邦彦

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

351p
総計3416p
「これは新書ではない」という帯を付けて売ればどうだろうか。それほど充実した内容を持つ本である。「市民社会」の概念が西洋思想史のなかでどのように変容していき、さらにそれがどのように日本で受容され、消滅したのか。壮大な視座のもと書かれた概念史を読み進めていった後に、現代へと通じる問題意識が得られるだろう。「市民社会」の概念史がどれほど展開と誤解に満ちたものであったのか、そのあたりを押さえておくことは現代の理論構築が過去の過ちを犯さないための必須要件である。
西洋思想史のパートはポーコックの影響が強い様に思われるが、ルソー、ファーガスン、スミス、ヘーゲルマルクスらの影響関係を「市民社会civil society」概念から解き明かしている点で勉強になる(少々ヘーゲルのあたりが専門性が高すぎるようにも感じるが)。マルクスまで時代が進んだ後に、今度は日本の「市民社会派」の成立と衰退を見ていく。講座派、丸山真男高島善哉、内田義彦、平田清明らの「市民社会」観が、筆者の批判的な視線から分析されていく。日本の市民社会派と呼ばれた内田や平田らの主張は、「日本には(資本主義はあるが)市民社会がない、市民社会をつくろう」というものだ。筆者は、「市民社会派」の歴史的な存在拘束性を認めつつも、彼らが行き詰まったのは畢竟「市民社会」の概念理解(すなわち思想史の研究)が誤っていたからだとする。ロジックからすれば、彼らの「市民社会」はバズワードでもあり、(驚くべきことだが)中曽根らの新自由主義経済推進派のロジックとかなり近似してしまうのだ。
最終章では、現代の市民社会論に触れつつ、近年称揚され続けているNGOなどの「新しい」市民団体が、新自由主義のスローガンである規制緩和と自立支援と相互補完的になり得る両義性が指摘される。経済のシステムに組み込まれ、政治の外側で、政治が統治することを停止した事柄を保管する「市民社会」ではなく、政府の政策に具体的に訴えかけることができるような政治的公共圏の創出が目指されねばならない。筆者がムフに触れながらこのように最後の主張をするとき、そこにはまだ多くの問いが広がっていることに気付かされる。それは、今度は「市民社会」に変えて「公共性」が前者と同様の運命をたどってしまうのではないか、という可能性である。おそらく、本書を読んだ後に、ぜひ再読すべきなのは稲葉振一郎『「公共性」論』に違いがない。
「公共性」論

「公共性」論