'11読書日記19冊 『近代の観察』ニクラス・ルーマン

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)

219p
総計5287p
ルーマン大先生、「存在論」を撃つ!という感じでよろしいでしょうか?
ルーマンによれば、近代とはセカンド・オーダーの観察によって社会(システム?)が作動しているということになる。存在論への憧憬は、結局、近代社会のセカンド・オーダー性を捉え損ねているか、あるいは、セカンド・オーダーから直接の観察へ回帰しようとする懐古趣味へと陥っているのだ。ハイデガーのコロラリーで言えば、セカンド・オーダーの観察のレヴェルで作動している社会は、「存在忘却」を意味するだろう。しかし、それは同時に、<存在>への回帰を夢想することへと容易に導かれることになる(「一次元的人間」)。存在の代わりに、「自然」や「理性」を用いても同じことである。このようなルーマンの言説は、「ポストモダン」的だと名指されることになるかもしれない。が、ルーマンによれば、存在(自然・理性etc)への回帰の不可能性をポストモダン的だというのは誤っている。というのも、近代の構造そのものがはっきりと露呈したときにこそ「ポストモダン」に至ったのであり、近代はただ可能態としてその構造を隠蔽することでかろうじて保たれていたにすぎないからだ。

近代は(…)自己の予期が充足されるのを未来へと先延ばしにし、自己観察と自己記述に伴うあらゆる問題を、未来が〈未だないnoch nicht〉ことによって回避しようとした。それに対してポストモダンの言説は、未来のない言説である。(p2)

近代社会を、疎外状態として描くことは、存在論への回帰の可能性を残存させ続ける。確かに、近代に置いて解放された個人は、自らのアイデンティティへの不安に付きまとわれる。自分が「何者か」ということを同定することが難しくなる。だが、それと引き換えに「セカンド・オーダーの観察の可能性」を獲得し、機能分化を推し進めることが可能になったのだ(正確に言えば、前者は後者の結果なのであろうが)。
ルーマンによれば、観察とは、「区別を用いてその区別の一方の側を(他方の側を、ではなく)指し示す、あらゆる種類の作動」である。あるいは、自己言及と他者言及の区別を付けることだと言ってもいい。例えば、思考と存在の区別、行為と自然=本性の区別を考え、思考を、あるいは行為を(自己言及として)指し示すことが、それである。だがしかし、この区別はどのようにしてなされているのだろうか、自己言及と他者言及の区別はどのように統一されているというのだろうか。これらの問いに答えれば、区別自体は恣意的であり、統一は統一として観察されることはなくそれは隠蔽されていると言わざるをえない。これは、Aから非Aを区別するためには、前提としてAが定義されていなければならないが、そのときには区別の基準には常にすでにAが入り込んでいることになるからである。あるいは、非-非AとしてAを定義(指し示し・マーク)したとしても、そのときにもやはりAが前もって考えられていることになる。Aを区別し指し示すためには、Aから区別しなければならなかったはずの非Aを自らのうちに包含(再参入)しなければならないのである。この時点で、あらゆる区別と指し示しはパラドックスに陥ることになる。
ヨーロッパの近代は、「合理性」というゼマンティクを用いることで、このパラドックスを隠蔽してきた。思考は存在から、また、行為(自由意志)は自然=本性から、区別されマークされるが、そのときには「合理性」のもとに、思考と存在の、行為と自然の一致が暗黙裏に前提されていたのである。しかし、思考が存在を、また行為が自然を区別した上で統一するためには、思考自体が存在しなければならないし、行為自体が自然でなければならない。すなわち、思考・行為は、自身をそこから区別しなければならない反対側からむしろ際立たされねばならない。そして、この統一が達成されるとされた場所こそが「人間」すなわち「合理的なるもの」だったのである。言い換えれば、思考や行為自体が、思考/存在、行為/自然の区別を産出し、そのパラドキシカルな区別を可能にするのが「人間」や「合理性」というゼマンティクなのである。区別されねばならないものが、その区別へと再び還流(再参入)する。このようなパラドックスを観察することこそが、セカンド・オーダーの観察と言われるものである。
だが、「人間」や「合理性」といった概念が、イデオロギーとして批判にさらされるようになれば、区別の統一性の恣意性が明らかになる。しかし、イデオロギー批判はつまるところミイラ取りがミイラになってしまわざるをえない。虚偽意識の弾劾でも、疎外批判でもいい。それらは、ある(第一次の)観察者には見えていないものを指摘し、その盲目を観察者自身の性質に帰属させることで、同時に(暗に)自らの観察の正しさを主張しているのである。とはいえ、あらゆる区別と指し示しがパラドキシカルなのであれば、イデオロギー批判という観察でさえそのパラドックスを免れえない。要は、結局イデオロギー批判は、「存在論的議論」へと多かれ少なかれ回帰してしまわざるをえないのだ。それゆえ、こういった観察の観察におけるパラドックスを直視するものは、偶然性・偶発性を一身に引き受け、「何が区別されているのか?」という問いから「いかにして区別されているのか?」という問いへと移行することしか許されない。言い換えれば、指し示すこと(マークすること)が区別に依存しているがゆえに、区別の仕方が変化すれば、つまり別の区別が用いられれば、指し示し(マーク)も別様になるであろうということ、「それは別様でもありうる」ということを受け入れることでしかないのだ。