'11読書日記21冊目 『国家とはなにか』萱野稔人

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

283p
総計5970p
基本的な軸は、国家を資本とは別のロジックで考察するということに尽きる。本書が持つ美点、そして稀有な点は、いわゆる現代思想と呼ばれる分野に位置されるであろう思想家(フーコードゥルーズら)を引き合いに出しながらも、決して語り口が難解になったりせず、淡々と平易に国家を哲学しているところにある。理論的な面で言えば、ウェーバーの国家の定義――手段としての暴力行為――に寄り添い、暴力が国家という運動においていかに組織され行使されてきたかが論じられている。「暴力」は言説の暴力といったポストモダン的なものではなく、まさしく物理的なレベルを意味しており、国家を概念把握するときには必ず暴力が参照されねばならないとする。
本書はおそらく二つのことを意図して書かれている。それは、マルクス主義の国家観(上部構造の下部構造への従属ないしは、抑圧のための道具としての国家)の修正と、フーコーの枠組みでは国家を捉えることができないとする一部の批判への反駁である。後者の試みは、ある意味で前者の試みと結びついている。筆者によれば、国家という運動が暴力を手段として用いるのは、富の我有化(appropriation)という目的のためである。それは、国家がなぜ・どうやって税を徴収するのかということを考えれば明らかだろう。一般的には国民のセキュリティを保証するために必要経費として税は徴収されると考えられている。だが、それはむしろ逆であり、国家が暴力を優位的に保有しているから、暴力に関して劣位に置かれた人々から税を徴収することが可能になっているのだ。そして、税を徴収することの目的は、国家が富を我有化するためである、というわけだ。ところで、筆者は国家を特定の階級に限定したり特定の主権者に限定しようとせず、あくまで暴力の組織化と富の我有化を行う脱人格化された運動として定義している。ここにおいて、マルクス主義的な国家観の見直しが図られるのであるが、しかし、国家の存立基盤の一つに富の我有化を挙げている以上、どうしても次のような問いは避けられないように思われる。いったいどうして国家は富を我有化しようとするのか、富を我有化することで利益を得るのは誰なのか? ひょっとすれば、筆者は、富の我有化をもくろんで暴力を組織化する国家という運動体は、その起源に特定の有力なグループの存在があったことを認めるのかもしれない。それはやがて王族や貴族へと凝集するのかもしれない。だが、だとしても、国家が民主化するとき、あるいは暴力が民主化するとき、そのときでさえ国家が暴力を我有化しようとするというのであれば、それは一体なんのためなのか。民主化した国の民衆がそれを目論んでいるのであろうか。それとも、ブルジョアジーが自らの利益のためにそれを行うのだろうか。おそらく、この答えは筆者に退けられるだろう。実際、筆者は本書の中で4,5箇所しかマルクスには言及しない。「国家と資本主義」という章を設けているのに、である。