'11読書日記23冊目 『グロテスクな教養』高田里惠子

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

253p
総計6747p
以前、佐藤俊樹『不平等社会日本』を読んだ際、id:ozimさんに教えていただいた。凡百の教養論を読むよりも、これ一冊読めばひとまず満足ではないかとさえ思うほどの好著である。
かつて総合人間学部を受験しようとし(結局は経済学部を受験したが)、いまは教養学部を持つ大学院に在籍する僕としては、「教養」という言葉は身に染みるものがある。大学一年生くらいのときに僕は、自分が教養を渇望しているのに対して他の大学生は一向にそのようなものを志向していない(ように見える)ということに、苛立っていた。その苛立ちの中身には、一つには京都大学に入っているにも関わらず知=教養を求めない人たちの意識の低さがあっただろうし、また一つには、自分と同じ興味を持っている(同じ本を読んでいたり同じことを考えたりしている)人が周りに見当たらない(と思っていた)ことがある。「爆笑問題のニッポンの教養」という番組が京都大学に来て、公開番組をやったことがあった。あらかじめ京大生にアンケートをとって「独創的な人はだれか」を聞いたところ、第一位がイチローという結果になった。これに僕は怒りを感じた。イチロー自身が悪いのでは当然無く、どうしてわざわざ京大生がイチローを選ばなければいけないのか、京大生の頭の中の「独創性」はまるで教養方面へと向けられてはいない、そのように僕は憤ったことを覚えている。教養と言っても、僕の場合は読書そのものが教養だと考えていたのだが、特に純文学/大衆文学という区別に固執し、前者にこそ価値を置いていた。今でも純文学を読んでいない人あるいは読書をしない人を心のなかでは軽蔑しているが、結局、このように「教養」に価値を置いて周りの学生を見下すことが、(サークルにも入らず華々しい大学ライフを送ることのない)自分の生活を自分で正当化することだと分かって、そのうちに「教養」を語ることをしないように自戒した。
本書は、そういう教養がたりのいやらしさを徹底的に洗い出し、シニカルに眺めてみせる。

それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない。その事実を自らの力によって知っていくエリート(と呼ばれる)青年たちの姿を、教養言説を背景として描き出してみること、それが本書の狙いである。

教養とは「男子、いかに生くべきか」という男子の人生論・修養論にほかならない。ドイツ語のBuildungこそが、教養の代名詞でもある。つまり「自分自身を作り上げるのは、ほかならぬ自分自身だ、いかに生くべきかを考え、いかに生きるかを決めるのは自分自身だ、という認識」これが「教養」について人が語るときに語っていることなのだ。大雑把に言えば、教養語りをすることはエリート/大衆の区別を立て、前者にしがみつくことにほかならないと言える。つまり、教養を身につけることでエリートはみずからを大衆から差異化する。しかし、教養主義には常に教養批判が随伴していた。例えば、マルクス主義教養主義批判の第一波である。それは教養主義者が実践的に活動せず、読書だけに充足していること、これを批判する。あるいは、教養を捨て街に繰り出し大衆に親しむことをこそ称揚し、ディスコミュニケーション教養主義者を閉鎖的だと弾劾する批判の仕方もある。だが、どちらにしても、それらもまた教養主義と自らの立場を差異化しそして正当化するある種の教養主義にほかならない。というのも、教養主義教養主義批判も、どちらもどのようにして生きるべきかということにこだわり、己の価値観の典拠を「教養」にひとまとめにして語るからだ。しかし、価値観が多様化したと言われる現代においてもはや「いかに生くべきか」ということを語ることは不可能に近いし「「男の子いかに生くべきか」などと、若い学歴エリートたちに語りかけ、「生きがい」を提供してくれるような教祖様や社会学者、それに教養論には、まずは要注意なのである」。