'11読書日記29冊目 『進化論の基盤を問う』シュペーマン

進化論の基盤を問う―目的論の歴史と復権

進化論の基盤を問う―目的論の歴史と復権

p313
総計9079p
邦題は大分誇大広告。原題は「何のために?という問い――目的論的思考の歴史と復権」である。現代科学、特に進化論的生物学や社会生物学において目的論的思考は哲学・神学の負の遺産であり、即刻唾棄されるべきものとされている(らしい)。それに対して、本書は現代の最先端の科学でさえ、ある種の目的論的図式を持ち込まざるをえないということを示そうとする。第一部は、古代ギリシアからニーチェまでの目的論(と反目的論、つまり機械論や唯物論)をおった思想史のパート、第二部が科学批判となっている。思想史のパートはページと訳の省略のために議論が簡単になりすぎているような気もするがそれでも勉強になる。
第二部の科学批判パートの議論の概要は、反目的論的な現代科学は結局、論点先取の誤謬を犯しているというものである。本書では、それを三つの重要な概念「生命」「意識」「倫理」について論じている。ここでは、「生命」だけについて見てみよう。分子生物学において「生命」は「システムが突然変異生成によって進化できるとき、そのシステムは生きている」とか「生きたシステムは発生のプログラムを持っている」という風にして定義される。しかし、それは「生命がどうやって発生したか」という問いに答えるというより、一定の条件下で自己複製する構造がどのように発生したかという問いに答えているだけだ。生命はたしかにそういった条件を持っているであろうが、生命現象はその条件だけには汲み尽くされない。むしろ生命を理解するためには、「生命」というものをどうして私たちが問題にするのかと問うことが必要になる。その問に答えるなら、それは、人間が自分自身生きているという経験を意識しているからである。自らの生命の体験から、他の生命について類推しているのだ。そのとき、私たちは自分の生きているという経験について何らかの抽象をせざるを得ず、そこからは取りこぼされるものが出てくることになる。しかし、さらにより根本的なことがある。すなわち「生命」の定義・抽象化は自分自身の生の体験から由来しているのだから、科学が生命体/非生命体を分け隔てるために生命を定義しようとすれば、区別したい当のものの性質を先取することによって定義してしまっているのだ。
進化論的認識論が定義する「意識」や社会生物学の「倫理」も、同様の論点先取によって定義がなされているということを本書は示す。それら現代科学(進化論の申し子たち)は、いわば生活世界の価値判断から遊離し、徹底的に人間の自律した意志/行為のモデルを退けようとする。それを本書は批判するのだ。

かくして進化のプログラムに関して、新たな循環論法が示される。自己経験によって得られた諸前提から、擬人的なやり方で動物領域の中に抽象が持ち込まれ、そのあとで再び人間が淘汰理論の助けを借り、その抽象に基づいて自己を再構成する。これはすなわち、人間が自分自身で擬人論という正体を現したということである。(p246)

とはいえ、筆者らは目的論的な科学認識を復活させようというのではない。ニューサイエンスの無茶な議論に対して、目的論的構造の必然性を明らかにした上で、人間の行為モデルに立ち戻って考察を広げていく。それは目的論と関心(認識と関心)という形で展開されていく。