'11読書日記31冊目 『ヨブ 奴隷の力』アントニオ・ネグリ

ヨブ―奴隷の力

ヨブ―奴隷の力

229p
総計9537p
久しぶりに現代思想っぽいというか、何しかよく分からないものを読んでしまった。ネグリたんのヨブ記解釈ー!わくわくー!と思って読み始めたらみるみる辛くなった。ネグリ自身が獄中にいたとき(1982-83)に書き始められたもので、投獄されて四年目だったらしい。ネグリはヨブと自身(とその運動)を重ねあわせていて、ヨブにヒュブリスを見るのではなく、〈力〉を見ていく。本書の(おそらく)独創的なヨブ記解釈は、圧倒的な受苦の中にいて神に対峙するヨブの振る舞いを労働に見立てるところにある。神に与えられた苦難は、全く合理化=理由付け不可能なものだ。それをネグリは資本主義において疎外・搾取される労働者の境遇とアレゴリカルに読み込むのである。面白かったのは、応報刑罰が交換なのだという着目。ヨブの友人らとの神学論争において、あくまで友人らが応報刑の位置にとどまっているのに対して、そのような交換が成り立たなくなったところにこそ自らの受苦と神のヴィジョンを見出すヨブ。応報とは交換であり、正当な交換において搾取がなされるところにこそマルクスの含意があったわけだけれど、それは貨幣という唯一の尺度をもとにしたものだった。マルクスマルクス主義であったかどうかはさておき、ある種のマルクス主義は搾取の奪回、搾取したものが搾取する側へとconversion/revolutionすることを目指した。だが、結局そのようなユートピアでさえ、貨幣や何かしらの尺度=基準を前提にした公正に頼らざるをえない。結局は通約されうるものの再配分につながっていく。だが、ヨブが置かれた受苦は、合理的な尺度が脱臼され、全く通訳不可能なものだ。ヨブはそこに立ち留まり、神への対峙へと向かう。このポテンシャルを、ネグリは〈力〉と呼んでいる――のだと思う。訳者・仲正さんの解説を読む限りは、このような感じだが、ヨブ記を解釈するネグリを解釈する作業に骨が折れてしまった。

労働は価値であることをやめ、問いとなった――それが全てだ。