理論では正しいと誰もが思っているが実践ではちょっと...という通説の全てを打破しなければいけない

式典での公務員の国歌斉唱命令に合憲判決が下った。大阪では橋下徹が教員の起立の義務化を条例化しようとしている。国旗・国歌をめぐる政治的な対立は、96年に文部省が指導を行って以来ずっとHOTな話題で在り続けている。左翼は、憲法19条の思想良心の自由に依拠しつつ倦むことなく批判してきた。実に25年来15年来、批判し続けてきたわけである。が――。今回の合憲判決、そして橋下徹の件に関して、良心的な左翼的信条の持ち主でさえ「またか」と嘆いてしまいたくなるような徒労感があるだろう。少なくとも僕は「またか」と思ったし、それらを批判するようなことをツイートすることさえしなかった。もはや左翼は無力なのか。
昨日のゼミ。D3(?)になる先輩の発表は、新自由主義をめぐるここ三十年の(批判的)議論を振り返りその隘路を指摘し、新たなヴィジョンを提示しようとする意欲的なもの。先輩の議論はそれほど上手くいっているようには思えないが、理論的に新しいものを考えようという姿勢に勇気づけられた。先生のコメントは少し辛めで、先輩が議論の中で用いていた新しい政治(アウトノミアなどオルタナティヴ運動)と古い政治(労働運動など)との対立構図は70年代からあるそれこそ古いものだ、というものだった。
政治理論はいかにして可能か、あるいは政治理論は今日可能か、という問いは20世紀の初めからずっと繰り返されてきた。特にアメリカの文脈では、政治学が実証的な政治科学(political science)へと回収され、政治哲学・理論は実践的に無意味な戯言とみなされる傾向があった。もちろんそうした実証主義的傾向に一矢報いたのは、ジョン・ロールズである。ロールズと自身の立場をどう差異づけているかということは、まずもってロールズ以後の社会思想家の基準になりえている。はっきりと言って、ロールズの登場を誰よりも喜んだのは、それまで蔑まれてきた思想屋である。思想・理論は、社会からまじめに取り上げてもらえる素地を再び見出したのだ。だが、『正義論』が71年に出版されてからおよそ40年経った今、思想・理論は再び自らの無力感にさいなまれることになっている。リベラル/コミュニタリアン論争にせよ、新自由主義社会民主主義にせよ、新しい政治/古い政治にせよ、どれもロールズ以来40年間にわたってずっとHOTであり続けた話題だ。しかし、社会に働く諸力の圧倒的な現実性の前に――9.11や金融恐慌、そして3.11――それらの理論的対立がなにか寄与するべきところがあったのかと、少なくとも誠実な人であれば問わざるをえない。あるいは、新自由主義の世界的席巻と金融恐慌での一挙崩壊に対して、正直な左翼あるいはリベラル(ないし社会民主主義者)は自らの批判の無力さに苛まれずにはいない。ここで共産党へのよくある侮蔑的態度を思い出してもいいかもしれない。「あいつらは批判ばかりして対案を出さない」「共産党のヴィジョンはユートピアで現実的に何ら意味を成さない無効なものだ」etc。同じようなことが思想・理論においても今やあからさまに言われている。「思想?理論?そんなものは抽象的な題目に過ぎない」「規範理論だって?規範も理論も現実とはかけ離れたものだ」「あいつらは批判にだけ生きがいを感じていて社会を変えようとすることなど無い」etc。
昨日のゼミでの先生のコメントは、先輩の議論建てが40年来周知の対立の焼きまわしに過ぎない、ということのほかに、現実の複雑な情況をもう一度見直す必要があるのではないかと続く。問題は、現実が確実に変転しているというのに、40年来同じ対立構図が今も尚HOTであり続けている思想・理論をめぐる言説の状況である。思想・理論が常に現実に遅れをとるとしても、その遅れにも限度がある。一見新しいと思われるような理論でさえ古い対立の中に絡め取られてしまう。論争の場で、論者たちは批判すべき現実を見つけ、自分たちのお気に入りの理論的対立にあてはめ、(不躾な言い方をすれば)あたかも喜んでいるかのようにさえ見える。「仕事が増えた!」というわけだ。
問題は、現実の変化にもかかわらず理論的対立軸が昔と変わっていないということにあるだけではない。真に根深い問題は、左翼・リベラルは倦むことなく半世紀近く同じような批判を繰り返し、同じような理論的構図で議論をし続けてきたにもかかわらず、全く"現実"に影響を持っていないように見えることである。本当に社会を変える気があったのかと問われても仕方のないような"現実"があるのだ。学者・理論家・思想家は、この"現実"に対して詰問されてしかるべきだし、その責任があると思う。同時に、その責任を負えなければ思想や理論を語るべきではないと思う。
ところで、今僕らが取りうる選択は三つある。こうした理論的・思想的な敗北感に打ちひしがれて、自らとその周囲の幸福を守っていくだけだとする態度。理論・思想を捨て実践にコミットする態度。そして「にもかかわらず」といって理論・思想に参戦する態度。僕は一番最後の道を選びたい。それはあくまで自らが書くことで世界に対して闘いを仕掛けることだ。「理論的には正しいが実践には役立たない」と言われる通説について、逐一反論を試み、理論は常に実践であることを示そうとしたのはカントであった。カントは世を捨てて隠遁する哲学者・形而上学者ではない。彼は常に自らの哲学で世界に闘いを挑んだ。彼の政治思想は弱いと言われるが、むしろ彼は形而上学・哲学において政治的で在り続けた。哲学や思想・理論は実践には役に立たない、現実を変えることはできない、とその程度の哲学ならもうやめておけばいいのだ。

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)