赤い河

赤い河 [DVD] FRT-124

赤い河 [DVD] FRT-124

ハワード・ホークスの古典的名作『赤い河』は、西部劇という男どもの血なまぐさいロマン主義を見事にひっくり返して見せる――最後の最後で。いや、正確に言えば、2時間を超える時間の中でずっとほのめかされてきたものが、最後に一気に露出する。脱構築不可能な正義が、関係性としての正義が、絶えざる脱構築可能としての性規範が、一気に暴かれる。
ジョン・ウェイン演じるダストンと、モンゴメリー・クリフト演じるマシューは、アメリカ南部の荒野を、牛9000頭を連れて1600kmもの大移動を繰り広げる。南北戦争の敗北で南部はひどいデフレに襲われている。テキサス一の牧場を持つダストンは破産を逃れるために、牛を引き連れて北上することになる。馬に乗った男どもが、荒野を牛追いする様は、ユダヤ教成立期の原初的民族大移動を想起させる。1880年代のアメリカ南部はいまだ南北戦争の傷跡が癒えぬまま、あたり一面の荒野であり、確固たる土地の所有権は無いに等しい。ネイティブ・アメリカンコマンチ族や、大地主たちが縄張りを張っているだけで、武力でその土地に押し入り周囲の雑音を静めたものが、その土地の所有者になるのだ。ここにはアメリカの無政府主義的なリバタリアニズムの源泉が見いだせるだろう。まだナショナルなものに完全には回収されていない――「草の根保守」には程遠い――半自然状態がある。『赤い河』は典型的な西部劇からは逸脱した、土俗的な男達の原初の労働を描いている。人々は大移動の中で疲弊し、人為的な悪=無法者はおらず、自然こそがまず第一に戦うべき相手として存在する。
秩序をもたらしているのは、一行の頭ダストンだけだ。彼は鉄拳制裁をもって、自らの計画からドロップアウトしたり自らに歯向かう人物を殺す。彼は孤独である。だが、それはリア王的な暴虐/孤独なのではない。彼は自らの過ち――反抗した仲間を殺すことで集団をまとめる――をよく知っている。殺した仲間埋葬され、ダストン本人が聖書を読んで弔うのだ。彼が必要としているのは、彼を愛し忠告してくれる伴侶である。その伴侶になるべき人物は、マシューに他ならない。マシューはかつてダストンに拾われ、14年間手塩にかけて育てられ一人前になった。だが、マシューはダストンの言わば「子ども」に過ぎず、ダストンの暴虐を見咎めるものの彼の命令を受け入れる。マシューはダストンを慕い尊敬するが、彼の伴侶ではない。しかし、あるとき、転換が訪れる。それは、真夜中に脱走した仲間をダストンが縛り首にしてやると吠えた瞬間だ。銃ではなく縛り首にして殺す権利を、ダストンが口にしたとき、そのときにマシューはダストンに公然と反抗し、彼からリーダーシップを奪い取るのだ。なぜか。縛り首による私刑=死刑は、もはや私刑ではないからだ。お互いが銃を抜き合い決闘する限りでは、両者の関係は擡頭であり、それゆえそこには正義がある。決闘では裁く者も、裁かれる者同様に死の可能性がある。正義は上から与えられるものではなく、関係性にこそ宿っているのだ。しかし、縛り首を命じることは、関係性の正義を打ち砕く。縛り首は、上からの正義を象徴する。それは見せしめであり、フーコーが言うように典礼的な権力の発現なのだ。しかし、マシューが断固として縛り首に反対し、ダストンを力でもってねじ伏せるとき、ダストンの正義=法は脱構築される。その正義は偽りであると宣言され、そこではじめてマシューがダストンの「子ども」であることを止める。対等に対立できる関係性が構築されるのだ。
ダストンはみずからの牛を奪い、自分が目指した場所とは違う場所へ進むマシューを背後から付けねらう。だが、そこには憎しみというよりもむしろ愛があることが明らかなのだ。愛は、正義と同様に脱構築不可能だと言われねばならない。愛する者/愛される者のいずれかが専制的にふるまった瞬間に、愛は愛ではなくなる。関係性が対等である限りにおいて愛は愛でありえるのだ。しかし、その愛はいまだ男同士の復讐劇・憎悪という形に隠れている。彼らの正義=愛の発現を可能にするのは、西部劇において守られるべき存在であった〈女〉である。『赤い河』で描かれるのは、決して〈女〉をめぐって繰り広げられる男同士の争いではない。むしろ全く構図は逆転している。男同士の憎悪・復讐を愛へと昇華させる媒介として、〈女〉が登場するのだ。

映画の最後、いよいよダストンがマシューへと詰め寄る。銃を抜けと言われても抜かずにじっと彼を見つめるマシューに、ダストんはついに苛立ち、素手でなぐりかかる。二人は殴り合いの大げんかを始める。そこで、〈女〉が、〈女〉こそが銃を使って喧嘩を調停するのだ。つかみ合ってもつれ合うダストンとマシューに向かって発砲し、二人の愛を宣言するのは〈女〉なのである。

"Anybody with half a mind would know you two love each other.... Then stay still! No, don't stay still. I changed my mind. Go ahead, beat each other crazy."
〈女〉――マシュー一行が旅の途中で知り合う〈女〉は、マシューのことを愛している。だが、上の台詞では悟っているのである。マシューは自分よりもダストンを、そしてダストンも――彼は一度は自分の子どもを産んでくれと頼んだのだが――自分よりもマシューを愛しているということを。殴り合う二人に「じっとしていなさい、さもないと撃つわよ」と詰め寄っていた彼女が、「いいえ、やってしまいなさい気の済むまで、考えが変わったのよ」と言うとき、彼女は二人の愛を承認する。涙ながらに〈女〉が去ったあと、マシューとダストンは本当に愛し合っている恋人のようだ。

ダストンの法=偽りの正義は脱構築され、無秩序が現れた。だが、いまや、その無秩序はダストンとマシューという二人の愛に変換される。ここでは、男同士の愛を、〈女〉が承認する。「赤い河」が一度目に渡られたときには、ダストンの専制的な法秩序が現前した。だが二度目にそれが渡られたとき、ダストンの支配はゆらぎ、マシューとの対等な関係性へと結ばれる可能性があった。一見憎悪と復讐の色を漂わせたその関係性を、正義へと、愛へと導くのは、彼ら自身ではなく、むしろそれまで〈男〉の法へ従属させられてきた〈女〉である。ここでは主従が逆転する。と同時に、〈男〉の法が自らを保つために禁じてきたもの――同性愛/ホモ・ソーシャル――もまた、〈女〉によって開かれる。
荒野の小さな町はマシューらが連れてきた9000頭もの牛で覆いつくされている。〈動物〉たちは群れをなし、草をはみ、蠢いている。それは〈金〉に変わる前の資源だ。「赤い河」を渡ったあと、人々が見るのは、9000頭の牛たちのようにいまだうごめきつづける、法へと凝固していない純粋な正義、関係性としての正義であり、土台をなくし揺るがされた支配的なジェンダーの可能性なのである。