'11読書日記45冊目 『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』アガンベン

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

257p
総計14242p
アウシュヴィッツの悲惨さ(「悲惨な」とか「残酷な」などという形容詞では語ることが許されえないようなほどの)は、大量殺戮にのみあるのではない。アウシュビッツから生還した人々の証言から明らかになったのは、そこでは人間的とも非人間的とも言いようがない存在が生産されていたということである。収容所の中で、あらゆる感受性や精神的反応を失い身体的機能さえ欠落した「人間」は、「回教徒(ムーゼルマン)」と呼ばれていた。ムーゼルマンはやがてガス室送りになり、殺戮されてしまう。ムーゼルマンの多くは(一部の例外をのぞいて)収容所を生き延びることが出来なかったのであり、彼らは収容所に入らなかった私たちにたいして自らのを証言することは出来ない。証言は、アウシュビッツのごく僅かな生存者にのみ委ねられている。
アガンベンは一貫して、人間を固定的なものとみなしたりヒューマニスティックなふうに描いたりすることを否定し、むしろ人間を閾だと、つまりそこにおいて人間/非人間が絶えず流動的に決定される空虚な場所として描いてきた。ムーゼルマンはまさにその閾が現実化されたものにほかならない。人間は言葉を持つ(あるいは思考できる)存在だとすれば、ムーゼルマンは言葉を持たない生身の存在、純粋に生物学的な生そのもの、「剥き出しの生」である。言葉を持つ主体(コギト)の能動性に比して、ムーゼルマンはまったき受動性を生きていると言える。だが、主体は本当に能動的なのだろうか。例えば、生理的な反応、便意や性欲、あるいは無意識について考えてみればいい。それらはいずれも意志の統御からすり抜けていくものにほかならない。主体を能動性の側面においてのみ捉えることは出来ないのだ。そうではなく、主体は、身体が意志の能動性から逃れ去っていくその内において現れてくるものなのだ。主体は「引き受けることのできないもののもとに引き渡されている」。別言しよう。存在者は主体であるために、言葉を獲得しなければならない。しかしながら、「私は考える」という表現形式を獲得した主体は、逆説的に「私」を語ることの不可能性に出会うことになる。というのも「私」という指示代名詞(陳述指示語・シフターshifter)は、辞書的な定義・意味を持ち事物(シニフィエ)を表現する記号(シニフィアン)とはちがって、言表行為(discours)の内部における関係性をしか意味しないからである。「私」とは言表している当のその人を指示するのみである。それゆえ、「私は考える」という主体の形式は、言語以前の身体から生起したにもかかわらず、「私」という存在の核には辿りつけないという意味で脱主体化されてしまっているのだ。言い換えれば、自らの生のうちに生じる感覚や想起などを統一(表現)するための「私は考える」の形式において、自己自身に現前していたそれらが徹底的に逃れ去っていく経験のうちに主体が現れてくるのだ。それゆえ

主体とは、言語が存在しない可能性、生起しない可能性である。もっと正確に言えば、言語が存在しない可能性を通してのみ、言語の偶然性を通してのみ、言語が生起する可能性である。人間が言葉を話す存在であり、言語活動を有する生物であるのは、言語を持たないことができるがゆえのことなのであり、自分の幼児期[in-fantにおいてfantは言葉を発するという意味]であることができるがゆえのことなのである。

ムーゼルマンはまさにこの偶然性の現前にほかならない。可能性が「存在することができる」という意味であるならば、偶然性(contingency)は「存在しないことができること」である。偶然性は、現実化した可能態のうちであくまで可能態にとどまりつづけた潜勢力なのだ。それゆえ、言語以前の発話不可能な生物学的な生の現前から遠ざけられているということ、この偶然性こそが主体の場所なのである。アガンベンはこのように論じてきて、アウシュビッツの真のおぞましさを説明する。アウシュビッツはムーゼルマンという偶然性を生産し、そして徹底的に破壊してしまったのである。偶然性の否定は「存在しないことができない」という必然性であり、また可能性の否定は「存在することが出来ない」という不可能性である。アウシュビッツにおいて体験されたことは

不可能なものの現存であり、偶然性のもっとも徹底的な否定――ひいてはもっとも絶対的な必然性である。アウシュヴィッツが生産する回教徒は、彼から生まれるはずの主体の破滅であり、偶然性の場所としての主体を抹消することであり、不可能なものの現存としての主体を維持することである。

いまや人間という主体の場において、生権力が人間的/非人間的なものを分断し、また可能性/不可能性、偶然性/必然性の様相のカテゴリーの決定を行うのだ。